イギリスの政治が迷走している――。
EU離脱(ブレグジット)を決めた2016年の国民投票後から国の舵取りを担ってきたテリーザ・メイ首相(保守党)が24日午前10時過ぎ(日本時間午後6時過ぎ)、辞任を表明した。
「愛する国に仕える機会を得たことに心から感謝しつつ、私は首相の職を去ります」
マーガレット・サッチャー以来、イギリス史上2人目の女性首相となったメイ氏だが、10年にわたって政権を担った「鉄の女」に倣うことはできず、3年で首相の座を追われた。
辞任の背景にブレグジット問題があるのは間違いない。
当初、イギリスは3月29日にEUを離脱する予定だったが、下院は政府がEUとまとめた離脱協定案を3度とも否決。議会政治の源泉たるイギリスで、皮肉にもその「議会」が機能不全に陥った。
EU側は離脱期限を10月31日まで延長したが、先行きは不透明だ。
なぜ、ブレグジットは行き詰まっているのか。有力な後継候補は。今後、イギリスはどこへ向かうのか。在英ジャーナリストの小林恭子さんに話を聞いた。
メイ首相の辞任、国内の反応は
イギリス国内では「やっと辞めてくれたか」という安堵感が広がっています。「辞めるのではないか」と言われ続けて数カ月が経過していましたから。
特に今年1月15日に最初のEU離脱協定案が歴史的大差で否決された時は、辞任を求める声が上がりましたが実現しませんでした。野党労働党が翌日議会に提出した不信任案は否決され、保守党内の党首辞任を望む声も過半数を得られなかったからです。
結局、メイ首相は下院議員の支持を得ることができませんでした。辞任表明の中でメイ首相は、離脱に向けてのコンセンサスを作るのには「妥協が必要だ」と訴えました。これが次期首相の仕事になることでしょう。
辞任劇、最初の引き金「4度目の離脱協定案」
今回、辞任に至った直接的な引き金は2つあります。
ひとつはメイ首相が5月21日、事実上4度目となる離脱協定案(修正案)を「6月第1週に提出する」と下院で表明し、その内容に批判が噴出したことでした。
特に与党・保守党のEU離脱派の怒りを買ったのが、条件付きで2度目の国民投票を容認する項目です。
2016年の国民投票は「離脱:約52% 残留:約48%」という僅差で「離脱」が勝利しています。投票では1700万人以上の有権者が「離脱」に票を投じました。
これを無視するような選択肢は、民主主義を無視することになり、政治家にとってはご法度。離脱派の国民や政治家は、再び国民投票を実施することには大反対です。
再び民意を問えば、今度は「残留」が勝ってしまう可能性がありますから。
最大野党の労働党も「今までの法案の焼き直しだ」と反発。政界では「離脱協定案の可決は無理」という声が主流になりました。
そこでメイ首相は、下院への協定案提出を先送りすることにしました。
ただ、与党・保守党は5月上旬の地方選で惨敗し、1300以上の議席を失っています。23日に実施された欧州議会選でも大敗が予想されており、「もし総選挙があれば負ける」という大きな危機感が生まれていました。
こうした中で、メイ首相が4度目の離脱協定案の提出を先延ばしにしたわけです。
メイ首相は、以前から「離脱協定案が可決されたら辞任する」「離脱交渉の第2段階(通商交渉)は次の人に任せる」と確約していましたが、ブレグジットの議論を先送りにしたことで辞任時期が不透明になりました。
保守党内ではメイ首相に辞任を求める声が高まっていきました。
二つ目の引き金「下院院内総務の辞任」
辞任の引き金のもうひとつは、5月22日にメイ政権のアンドレア・レッドソン下院院内総務(EU離脱派)が「この(4度目の)離脱協定案を支持できない」として、辞任したことです。
下院院内総務は内閣のメンバーで、今後の議事予定を議会に通知し、政府と議会を調整する役職です。
メイ首相への辞任圧力が高まる中、閣内から離反者が出たことで指導力の乱れは顕著に。早期辞任を求める声が一層高まりました。
そこでジェレミー・ハント外相は、メイ首相に「離脱協定案の提出をあきらめるように」と説得を試みました。
一方で、幹部以外の保守党議員で構成される「1922年委員会」が5月24日、メイ首相に「辞任日を決めてほしい」と迫りました。
四面楚歌となったメイ首相は、24日午前10時過ぎ(日本時間午後6時過ぎ)に首相官邸前で「6月7日に保守党党首を辞任する」と表明しました。
メイ政権の離脱協定案は、なぜ否決されたのか
メイ政権のEU離脱協定案が下院で否決され続けた背景には、イギリス領北アイルランドとアイルランドの国境問題があります。
現在、北アイルランドとアイルランドは、共にEU圏内のため、行き来は自由です。ところが、イギリスがEUを離脱すれば、物理的な国境(ハードボーダー)を設けざるを得ません。
それを避けるために考えられたのが、政府の離脱協定案にある「バックストップ」条項でした。
イギリスはEU離脱後の移行期間(2年間)で、今後EUとの通商関係をどうするかを決めることになります。
この期間内でEUと合意できなかった場合も、北アイルランドとアイルランドの間にハードボーダーができないようにする。これがバックストップ条項です。
これによると、イギリスはEUとの間で、一種の関税同盟を結び、北アイルランドはイギリス国内でありながら特例的に「EU単一市場」のルールの一部を取り入れるとしています。
メイ政権は、北アイルランドとアイルランドの国境管理や人・モノの往来を、現在と同じくスムーズにすることを狙ったわけです。
しかし、北アイルランドの民主統一党(DUP、下院に10議席を保有)がこの案に反対します。イギリスへの帰属維持を原則とするDUPは、北アイルランドがイギリス本土と少しでも異なる扱いをされることに反発しました。
離脱強硬派の下院議員たちも、現在と同じような市場ルールが適用されるのであれば、「EUから離脱した意味がない」と反対。「バックストップ」条項を破棄する場合、EUとの合意が必要という条件にも異議を唱えました。
辞任の影響は?
保守党内では「やっと辞めてくれた」という安堵感とともに、「よくやった」という労いの言葉もでています。
それと同時に「次の首相は誰か?」という話題に向かっています。党首選の引き金が引かれたわけですから。
野党側からも一応は労いの言葉が出ていますが、メイ首相が自分の離脱協定案をごり押しすることで行き詰まっていたブレグジット交渉が動き出すことへの期待が大きいです。
労働党のジェレミー・コービン党首は、以下のようにツイートしています。
「メイ氏の辞任は正しい。国民が何カ月も前から分かっていたことだ。分裂して崩壊しつつある保守党も、この国を統治できないと、(メイ氏は)やっと認めた」
「新たな保守党党首が誰であれ、ただちに総選挙を行い、イギリスの未来を決める機会を国民に与えなくてはならない」
スコットランド自治政府のニコラ・スタージョン首相も、「メイ首相の幸運を祈る」とツイートする一方、これまでのブレグジット政策には「基本的に反対だ」と強調しました。
「総選挙をしないで、またしても保守党議員が首相官邸に入るのは、大間違いだと思う」
「さらに強硬的なEU離脱派の政治家が首相となり、合意なしブレグジットを推し進める可能性があることは非常に問題だ」
次期首相となる保守党の新リーダー、有力候補は?
今のところ、離脱派の議員が新たな党首になると見られています。
最有力視されているのがボリス・ジョンソン元外相です。キャメロン前首相が辞任した時にも次期首相候補として名前が挙がり、党内の人気も高い人です。
父親は元欧州議会議員で、エリート層の出身でありながら、ジョークを連発して人を笑わせることができ、あらゆる社会層の人にリーチできる逸材として知られています。
離脱運動でも「英国を国民の手に取り戻そう」と呼びかけて、有権者の心をつかみました。彼が党首になれば選挙に勝てると思う人が党内に多いので、有力な党首候補になっています。
ジョンソン氏は24日に「合意なき離脱」を想定に入れると発言。首相となった場合は、離脱強硬路線をとると見られています。
ほかに離脱派の有力候補には、前回の党首選で最後まで残ったレッドソン氏、元EU離脱担当相のドニミック・ラーブ氏などです。保守党の比較的若い世代の議員の間では「合意なき離脱」にも楽観的なようです。
離脱派でありながらメイ首相を支え続けたマイケル・ゴーブ環境相の名前も出ています。
ゴーブ氏は2016年の党首選で、ジョンソン氏の出馬を「支持する」としながら自身が出馬。ジョンソン氏が出馬断念に追い込まれたことで「裏切り者」と呼ばれることもあります。
ただ、これまでにいくつも閣僚を歴任し、実務家として高評価。ジョンソン氏などと比べると中庸路線をとると見られています。
一方、EU残留派ではローリー・スチュワート国際開発相、マット・ハンコック保健相、ハント外相が立候補の意思を表明しています。
残留派が新党首に就いた場合は、メイ首相のブレグジット政策を土台にして交渉を行うと見られています。
離脱強硬派、なぜ優勢? 背景に「あの人」の影
ジョンソン氏をはじめEU離脱派が保守党の新党首、すなわち新たな首相になる可能性が高いと見られていますが、背景には新興政党「ブレグジット党」の躍進があります。
「ブレグジット党」はEU離脱の旗振りを担った英国独立党(UKIP)元党首で欧州議会議員のナイジェル・ファラージ氏が今年1月に設立した政党です。
支持を広げるブレグジット党
ブレグジット党は、欧州議会選挙前の世論調査で35%と高い支持を獲得しました。ファラージ氏はブレグジットを煽ったポピュリストという批判が根強いですが、主張が一貫していることから支持を集めています。
ファラージ氏は2016年にブレグジットが決まった後、ブレグジット運動で疲弊したため「自分の時間を取り戻したい」とUKIP党首を辞任。このことで「逃げた」と批判を受けました。
ファラージ氏自身はイギリスの下院議員ではなく、欧州議会議員。つまり、イギリスの国政に参加することはできません。UKIPにいてもできることは限られている。そのため一度は身を引きました。
ただ、ブレグジットを実現できない保守党と、どっちつかずの労働党を尻目に、「合意なき離脱でも構わない」というファラージ氏の主張が受け入れられているのは確かです。
次の総選挙では下院進出を狙っているとみられ、支持者も急速に増えています。今後、躍進する可能性もあり得るため、保守党も労働党もかなり警戒しています。
保守党支持層がブレグジット党へ流れている
与党・保守党としてみれば、総選挙に備えてブレグジット党に流れた支持者を取り戻したい。そうなると「合意なき離脱も止むなし」という姿勢を取らざるを得ません。
こうした背景から、保守党内では離脱派が優勢になっていると言えます。
野党・労働党は「玉虫色」で支持広がらず
政権与党の保守党が支持を失う中、本来であれば支持を広げてもおかしくない野党・労働党も支持を下げています。
2017年の総選挙で、労働党はマニフェストにブレグジットの実行を書き込みました。ところが、大部分の下院議員は残留派が多い。「離脱を実行する」と言いながら、コービン党首の姿勢ははっきりしません。
コービン氏自身は反EUの立場ですが、労働党の下院議員の大部分は残留派。そういう人たちを率いなければなりません。
労働党そのものに玉虫色のイメージがついてしまったことで、離脱派からも残留派からもそっぽを向かれてしまった。こうした票は、自由民主党などに流れたと見られています。
総選挙の是非は次期首相が決定するだろうと思いますが、不透明です。可能性としてはあり得ますが、先述のように保守党の支持率には陰りが見えています。
野党はやりたがると思いますが、支持率が回復するまではやらないでしょう。
*小林恭子(こばやし・ぎんこ):在英ジャーナリスト。英字紙「デイリー・ヨミウリ」(現Japan News)の記者を経て、2002年渡英。政治やメディアについて多数の媒体に寄稿。著書『英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱』(中公新書ラクレ)、『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中公選書)。共訳書『チャーチル・ファクター』(プレジデント社)。
編集後記:
結果だけを見れば、メイ首相は「離脱」と「残留」で割れたイギリス国内をまとめることができなかった。
2017年の総選挙では過半数を割り、「可決されたら辞める」と進退を賭けた離脱協定案は否決され、袋小路に追い詰められた。野党に協力を求めるも、落ち目の与党に甘い顔をみせるわけがなかった。最後は身内からも見限られた。
迷走を重ねた「女王陛下の首相」は、満身創痍でダウニング街10番地を去る。
悔しさを滲ませた辞任表明のスピーチで、メイ氏はこう述べた。
「民主主義において、選択の機会を国民に与えたならば、その決定を実行する義務があると確信しています。私はそのために最善を尽くしました」
もともとはメイ氏がEU残留派だったことを考えると、あまりにも痛々しい結末だ。
メイ首相に対しては「現代における最悪の首相」と指導力不足を指摘する声もある。
ただ、これまでの混迷ぶりは「マグナ・カルタ」以来800年に及ぶ英議会政治の歴史においても、ブレグジットがいかに難題かを改めて証明することになったとも言える。
7月末までに決まる見込みの後任は、メイ氏以上の「最善」を尽くせるのだろうか。