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2018年12月4日

あの作曲家が送った壮絶な過去 戦争の記憶と、書き残した曲とは

「もし戦争から帰ってくることができなければ、これくらいしか残らない」

童謡「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」などで知られる作曲家の大中恩(おおなか・めぐみ)さんが12月3日、94歳で亡くなった。

戦後日本の子どもたちを育んだ、数々の童謡を生み出した大中さん。青年時代には太平洋戦争を経験し、学徒出陣で海軍に招集。入隊前には、死を覚悟して五線譜に記した曲があった。

あこがれの女性に背中を押され、音楽の道へ。

父は東京・赤坂の霊南坂教会オルガニストだった大中寅二。唱歌「椰子の実」の作曲でも知られる。母は教会附属の幼稚園の保母だった。

両親の影響で早くから音楽に親しんだ大中さん。小学生のころにボーイソプラノとして聖歌隊に参加。音楽家になることを考えはじめたが、父親は反対していたという。大中さんはJASRACのインタビューで、こう回顧していた。

父親は僕が音楽家になることには反対していました。音楽自体というよりは、親と同じ仕事をする“二代目”というものに否定的だったんですね。僕が楽譜を見ていると、いつもそばで「ばか野郎、まだそんなことやっているのか」なんて言う父親でした。

僕も負けん気が強いので、そう言われると「こんちくしょう!」と逆にピアノの練習に精を出す。そんな少年時代でしたね。

そんな大中さんが、音楽の道に進もうと決意したきっかけがある。中学二年の頃、同じ聖歌隊にいたソプラノの女性から受けたアドバイスだった。兄弟がいなかった大中さんにとって、姉のような存在だったという。

父親から音楽の道に進むことが許されないのであれば、クリスチャンとして牧師か伝道師になろうと思っていた僕は、自分の進む道ついて彼女に相談してみました。

すると、その方は「そういった仕事だけが神様に仕えることではありません。あなたはむしろ自分の好きな音楽の道に進んでこそ神様に喜ばれる」と言ってくださいました。

あこがれの女性からの一言が、「作曲家・大中恩」を生むきっかけとなった。

学徒出陣、死を覚悟して書いた「幌馬車」の曲

Wikimedia

出陣学徒壮行会(1943年10月21日)


1942年、大中さんは東京音楽学校(現:東京芸術大学)作曲科に入学。同期には、血盟団事件で暗殺された三井財閥の総帥・団琢磨の孫である團伊玖磨(だん・いくま)がいた。

大中さんの才能は見事に開花した。

北原白秋の詩に曲をつけた「わたりどり」はこの頃の作品。透き通る青空のもと、雪山に影を映しながら飛んでいく渡り鳥の様子を、のびのびとメロディで表現した。

しかし、そんな大中さんも時代の風に翻弄される。

時は太平洋戦争の真っ只中。大中さんも学徒動員で海軍に召集されることになった。

死を覚悟した大中さんは、入隊を前に「これが最後」と作曲に取り組んだ。「幌馬車」(詩:西條八十)も、その一つだった。

「見おくれば 君が幌馬車 はろばろと 小さくなりゆく」

大中さんは、この曲を遺言のつもりで書いたという。

死にいくことに臨んで深く感じるものがありました。もし戦争から帰ってくることができなければ、これくらいしか残らない。そういう感じのものをいくつか作りました。今から考えれば、あの頃はあれで良かったのだと思います。

(産経新聞・2015年12月2日)

海軍少尉に任官後、海軍の横浜港湾警備隊へ。 特攻兵器「回天」の乗組員として、3度も特攻隊に志願したという。

約150人の隊員全員が整列し、志願者を募ります。ほとんどの隊員が手を挙げるんですが、選ばれるのは毎回、10人くらい。兵舎を出る彼らを送る時には、お国のために役立てるんだ、こいつらいいなと、うらやましくなる。でも、姿が見えなくなると、あいつら帰ってこないんだと思い、暗い気持ちになりましたね。そんなことを3回、繰り返したんです。

(読売新聞・2018年7月19日)

1945年8月15日。ラジオから流れる玉音放送を機帆船の上で聞いた。

「負けるなんてことは、全く考えなかった。この戦いには絶対勝つんだという一心でしたよ。自分だけじゃない。まわりの皆がそうでした。でも、機帆船が横浜港に着いて、岸壁に上がった時、これで戦争は終わりなんだと、ほっとした記憶が残っています」

(読売新聞・2018年7月21日)

音楽学校の同期6人のうち、4人が戦争で命を失った。

終戦後、大中さんは復学し音楽学校を卒業。いとこの小説家・詩人の阪田寛夫の作詞で、「サッちゃん」や「おなかのへるうた」など数々の童謡を遺した。

五線譜に記した音符が、実際に奏でられた時、大中さんは生かされていることの意味をかみしめたという。

ラジオなど放送のための音楽に携わり、オーケストラの楽器が並び、自分の書いた楽譜が実際の音になるのを耳にしたとき、生かされていることの意味をかみしめ、音楽の美しさが以前に増して強く胸に響きました。

(産経新聞・2015年12月2日) 

童話と童謡の児童文芸誌「赤い鳥」が創刊されたのは1918年のことだった。

戦後日本の子どもたちを優しいメロディで育んだ稀代の作曲家は、奇しくも「童謡誕生100年」にこの世を去った。

Contact Kei Yoshikawa at kei.yoshikawa@buzzfeed.com.

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