「天皇陛下が友達になってくれた」ある留学生が語る、44年前の思い出

「はじめまして。私はアンドルー・B・アークリーです。オーストラリアから来ました。僕とお友達になっていただけますか」

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「天皇陛下が友達になってくれた」ある留学生が語る、44年前の思い出

「はじめまして。私はアンドルー・B・アークリーです。オーストラリアから来ました。僕とお友達になっていただけますか」

「僕とお友達になっていただけますか」

44年前、当時高校生だった天皇陛下にこう言ったオーストラリア人留学生がいる。アンドルー・B・アークリーさん(61)だ。

アークリーさんはこの春、天皇陛下や皇族方との親交をまとめた『陛下、今日はなにを話しましょう』を上梓した。モノマネを披露された高校時代の思い出、文通から垣間見えたお人柄など、BuzzFeed Newsではアークリーさんに陛下との交流秘話を聞いた。

はじまりは学習院高等科への留学だった

オーストラリアの外交官だった父とともに、ジャマイカ、スリランカ、シンガポール、ハワイと世界中を回った。その中で特に印象に残った国がある。1973年に訪れた日本だった。

当時10代だったアークリーさんにとって、日本は祖国と戦火を交えた国という印象が強かった。

だが実際目にしたのは、奇跡的な復興を遂げた東京の街並みと、祖国の人々と同じように平和を愛する人たちの姿だった。

「終戦から30年。東京オリンピックを成功させ、高度経済成長を謳歌していた当時の日本はまぶしかった。街並みは近代的で、ピカピカの自動車が道を行き交っていました」

日本という国は、決して一面的には語れない。もっともっと、この国を知りたいと悟った。

オーストラリアに帰国すると、日本との交換留学制度に応募。審査をパスし、晴れて留学生に選ばれた。留学先は学習院高等科。オーストラリアからの留学生受け入れは、これが初めてだったという。

1975年4月7日、2年生として編入するアークリーさんは、新入生たちと同じく真新しい詰め襟の学生服姿で入学式に臨んだ。

1年生の中に、のちにアークリーさんと親交を育む人物がいた。浩宮徳仁親王。のちの天皇陛下だった。

「僕とお友達になっていただけますか」

入学当初から、同じ学校に「日本のプリンス」がいることは知っていた。

「浩宮さまは、あくまで他の学生と同じように過ごしていました。そこまで目立つわけではなかった。探すとなると『ウォーリーをさがせ!』みたいな感じですね(笑)」

ある日、同じ授業をとっている友人から「浩宮さまと仲良くしている」と聞いた。

せっかく日本に留学して、偶然にも日本のプリンスが同じ学校にいる。もしよかったら、僕も友達になりたい。そう思った。

「それから数日後、その友人が浩宮さまを僕のクラスまで連れてきてくれた。学習院では1階が1年生の教室で、2階が2年生の教室。浩宮さまは僕に会うために、わざわざ階段を登ってきてくれたんですね」

アークリーさんは、勇気を出して自己紹介をした。「はじめまして。私はアンドルー・B・アークリーです。オーストラリアから来ました。僕とお友達になっていただけますか」。

陛下はニッコリと微笑み、こう答えた。「喜んで」。

学習院ではクラブ活動にも参加。教師の薦めで入ったのは地理研究会。陛下もメンバーで、部員同士の仲は良かった。

親しい友人の間ではあだ名もあり、陛下のあだ名は「じぃ」だった。

「浩宮さまに聞きましたが、きっかけは盆栽だったそうです。校内で盆栽を見た浩宮さまが、その枝ぶりを誉めた。高校生にしては老けた趣味だなと。そこから『じぃ』と呼ばれるようになったそうです」

「飾らない人柄で、多趣味でもあります。テニス、カメラのほか、よく天体観測もされていましたね。何年か前、テレビで愛子さまと一緒に望遠鏡を覗かれている様子を拝見しましたが、そのお姿をみて思わず懐かしくなりました」

クラブ活動で垣間見た、プリンスの素顔

学習院の地理研では、毎年夏に「夏季巡検」という地方旅行があった。アークリーさんが参加した年は、2泊3日の北陸旅行。能登半島の特色を学んだという。

「最初の夜は金沢のホテルに泊まりました。外観は洋風でしたが、部屋は畳でしたね。4〜5人で班分けされ、一部屋ずつ割り当てられた。もちろん浩宮さまも一部員として、班分けされた部員と同じ部屋に宿泊されました」

「消灯時間が過ぎても、浩宮さまや他の友達とおしゃべりをしていたことは覚えています(笑)。まるで修学旅行みたいな感じですよね」

学校生活のこと、友達や先生のこと。夜が更けるまで、色々なことを話した。

「そうそう。浩宮さまが、浴衣姿で手に扇子を笏(しゃく)のように持って、聖徳太子のものまねもしていましたね(笑)。こうやって同級生と外の世界で遊んだりしたのは、きっと思い出になったことだと思います」

この旅行の最中、アークリーさんがつけていた日記に、気になる言葉があった。

「浩宮はかわいそうだと思う」

どんな意味なのだろうか。

「これはね、どこに行っても、浩宮さまは何百人もの人に、日の丸を振って出迎えられる。常に大勢の目にさらされて、プライベートがない。それを当時の私は『大変だな』『かわいそうだな』と思ったんですね」

「ただ、これは僕の勉強不足だったとわかりました。浩宮さまにとって、それは負担という種類のものではなかった。国民が、自分のことを受け入れてくれていることの表れであり、そこに自らが入っていく。そのことを喜んでいらっしゃったのだとわかりました」

1985年に、陛下はこんな言葉を残している。

「一番必要なことは、国民と共にある皇室、国民の中に入っていく皇室であることだと考えます。そのためには、できるだけ多くの日本国民と接する機会をつくることが必要だと思います」

アークリーさんはこう付け加える。

「自分が天皇に即位したときにどうあるべきか。学生時代の経験は、浩宮さまが将来のことを考え続けるきっかけの一つにもなったと思います」

寄せ書き、手紙から見えた人柄

約10カ月の留学期間を終えた1976年1月、アークリーさんは羽田空港から帰国の途についた。見送りには100人ほどが訪れたが、そこに陛下の姿はなかった。代理として、東宮侍従の曽我剛さんが来てくれたという。

「帰国してから私宛にお手紙をくだされば、浩宮さまにお繋ぎします」。曽我さんはこう言って、自分の名刺をアークリーさんに手渡した。

留学を斡旋してくれたロータリークラブからは、アークリーさんが日本で出会った友人たちがしたためた和綴じの寄せ書きを受け取った。中を見て、アークリーさんは驚いた。

「いろんな人からの寄せ書きなんですけど、そこには浩宮さま、そして皇太子さま(上皇さま)と美智子さまからも直筆のメッセージがあったんです」

「メッセージの漢字に、ふりがながあるのも、浩宮さまの人柄を感じます。やっぱり、気遣いの人なのだというのが伺えました」

侍従がくれた1枚の名刺がきっかけで、陛下との文通がはじまった。

「浩宮さまからの手紙には、定期試験が大変だったこと、合宿で夜に騒いでいたら友達に怒られたこと、そんな何気ない日常を詠んだ和歌などが綴られていました」

「そこから読み取れるのは、皇族としてではなく、ごく普通の高校生の姿でした。ですが、その高校生としての日常を浩宮さまが伝えてくれたことが、何よりも嬉しかったです」

陛下との交流を重ねて、日本に一層興味を持ったアークリーさんは、再び日本で学ぶことを決意。東京外国語大学への留学を決めた。

パーティーで見せた、プリンスの素顔

東京外語大に入学後、アークリーさんは陛下の英会話の相手を務めた。時代が「平成」となり、皇太子となってからも、さらに親交は深まっていった。

秋篠宮さまが結婚された1990年のこと。陛下を囲んでのガーデンパーティーが開かれた。

アークリーさん曰く、「弟に先を越された殿下を励ます会」。ただ、陛下ご自身はそんなことは意に介さず、「みんなでお酒を飲む口実だったのかもしれませんね(笑)」と話す。

「(陛下は)とてもお酒が強く、日本酒やワイン、ウイスキーとなんでも嗜まれます。お猪口を集める趣味をお持ちで、一緒に日本酒を飲む時にはたくさんのお猪口の中から好きなものを選ばせてくれました」

ただ、このパーティーの時だけは陛下も珍しく酔っていたという。

「夕方ぐらいから夜遅くまで、何時間も飲んでいましたからね。普段はお酒を飲まれてもお顔に出ないのですが、このときばかりは違った。酔った姿をみたのは、この時が初めてでした。弟の結婚が嬉しかったのかな。なにか思うところがあったのかもしれません」

酔いが回った陛下は先にお部屋に戻り、お休みになったという。それから程なくして、パーティーの場に秋篠宮さまが訪れたという。その手には、メコンウイスキーがあった。

「秋篠宮さまは、気さくに『私の新しい家で一緒に飲みましょう』と。最初はお断りしたんですけど、『それじゃあ、一杯だけ…...』と。それでまた飲んでしまって、べろんべろんになってしまいました」

プロポーズの言葉から感じた「覚悟」

その後、陛下は小和田雅子さん(皇后さま)と結婚する。

それまでアークリーさんは、陛下とあえて将来のパートナーの話はしなかったが、記者会見で雅子さまが明かしたプロポーズの言葉に、陛下の「覚悟」を感じ取ったと語る。

「『僕が一生全力でお守りします』というのは、将来の天皇になる人が愛を伝える言葉としては、なかなか言わない言葉だと思います。徳仁さまは、あえておっしゃったのだと思いました」

「皇室という特殊な環境の中で、雅子さまを『守る』と伝えることで、安心させてあげた。徳仁さまの心に、雅子さまへの確固たるお気持ちがあると、全ての人に伝わったと思います」

「美智子さまに続き、民間から2人目の皇太子妃、そして皇后となった雅子さま。そのプレッシャーを慮っての、徳仁さまの“覚悟”の表れだったと感じました」

何かあったときに「言うべきことは言う」。そんな意識を陛下はお持ちだと、アークリーさんは語る。

「雅子さまが適応障害を患われた際に、徳仁さまが『雅子の人格を否定するような発言があった』と明かされた時もそうです。あのご発言は、内外に広く驚きを持って伝えられましたが、私は驚きませんでした」

「誠実さ、正しさ、約束を守ること。それは徳仁さまが持つ性質そのものだからです」

あれから44年、もし友とグラスを傾けるとしたら

初めて出会ったあの日から44年の月日が経った。いま、天皇となった友に言葉をかけるとしたら、どんなことを伝えたいか。

「明るい雰囲気の中で即位されたことを、まずお祝い申し上げたいですね。そして、もし許されることなら、またグラスを一緒に傾けたいです」

ともに酒を酌み交わすとしたら、なにが良いだろう。アークリーさんは「陛下にお任せして、お好きなものを…...」と言いつつ、あるウイスキーの名前を挙げた。

「ジョニー・ウォーカー キングジョージ5世」

イギリスの著名スコッチメーカー「ジョニー・ウォーカー」が、国王ジョージ5世の治世に「王室御用達」の栄誉を賜ったことを記念し、造られたもの。今はなき蒸溜所の希少な原酒がブレンドされた逸品とされる。

かつてイギリスに留学して自由を謳歌し、いまでは歴史学者としての顔も持つ天皇陛下にぴったりな名品だ。

「今度はカメラの本ではなく、このスコッチをお土産にしようかな」

いつの日か、友とウイスキーグラスを傾け、これまでの思い出を語り明かしたい。瞳の奥には、高校時代の思い出が今もありありと焼き付いている。