チェルノブイリ立ち入り禁止区域に生きる犬、海を越えて新たな家族を見つける

    チェルノブイリの原発事故から33年。立ち入りを禁じられた区域で生きてきた犬たちが、アメリカとカナダで里親の元に引き取られ、新たな生活を始めようとしている。送り出す人々の取り組みと思いを取材した。

    チェルノブイリ原子力発電所から50キロほど離れたウクライナの小さな町、スラヴィティチ。大きな耳をした10匹ほどの子犬たちが、しっぽを振りながらナタリア・メルニチュクの後ろで元気よくかけまわる。餌の入った特大ボウルを手にしたメルニチュクは足を止め、犬たちに向き直り、「座れ」と指示を出す。この地を離れ新しい飼い主の元へ送り出すためには、4つの指示を覚えさせなければならない。子犬たちはメルニチュクの前できちんと座ってみせた。

    子犬たちはまもなく、チェルノブイリ原発事故による立ち入り禁止区域を離れ、国外の里親のもとで暮らす。初めて実現する試みだ。犬たちがこれまで暮らしてきたのは、世界でも有数の疎外された場所だった。1986年に起きた史上最大規模の原発事故の影響が今も残る土地である。

    とはいえ、犬たちは普通の犬とまったく変わらない。「1匹が棒きれを拾えば、他の犬もいっせいに追いかけます」とメルニチュクは言う。

    ここで暮らす犬たちはネット上でも知られている。2018年に公開された動画はFacebookで600万回近く再生された。2017年に作った2分の動画も100万回以上視聴されている。非営利団体「Clean Futures Fund(CFF)」がチェルノブイリに暮らす犬を救おうと呼びかけたクラウドファンディングにも動画が使われ、5万6000ドル(約620万円)の寄付が集まった(呼びかけはWe Rate DogsDarthなどTwitterの人気アカウントでも犬の写真とともに紹介され、支援が広がった)。

    CFFでは立ち入り禁止区域にいる犬を保護するほか、発生から30年以上が経ってもなお事故の影響を受けている人々に対し、医療をはじめ必要なサービスを届ける活動をしている。

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    CFFは人を支援するために立ち上げられたが、支援者の熱意やネット上の関心が一番多く寄せられているのは犬たちだ。

    CFF創設メンバーの一人、ルーカス・ヒクソンによると、支援した子どもたちの様子を伝える記事や、取り組んでいる他のプロジェクトを紹介すると、寄付した人から怒りのメールが入るという。チェルノブイリの人ではなく犬を助けるために使ってほしくて寄付したのに、というのだ。

    「例えばSNSに写真を載せて『みなさんのおかげでこの子が治療を受けられました』と書いたりすると、『私が寄付するのは犬を保護したいからです。子どものために私のお金を使わないでもらいたい』という怒りのメールが3通とか5通送られてきます」

    ヒクソンが見せてくれたあるメールには、CFFがハンガリー出身の資産家ジョージ・ソロスから資金を受け取っている、との批判が書かれていた。ソロスは右派や反ユダヤを掲げる陰謀論者から常に標的にされる。チェルノブイリと関わればこうしたことはつきものだとヒクソンは受け止めている。歴史を背負い、さまざまな感情や誤解が渦巻く場所だからだ。

    そんな批判的な声もたびたび届くが、ヒクソンと共同創設者のエリック・カンバリアンは犬の保護を求める呼びかけをメディアで発信し、関心を集めながら、チェルノブイリの人々と共に取り組みを続けている。

    犬の保護プログラムの話題が拡散されると、放射能に関する正しくない情報が強調されてしまう場合もある。それでも、CFFの取り組みに関心が集まることにもつながる。チェルノブイリの犬たちを「野犬」と書いた記事や、放射能を帯びているからここの子犬に触れない方がいい、とする記事もあった(これは明らかに正しくない。子犬たちに放射性物質は含まれていない)。ヒクソンによると、毛に放射性物質が含まれる可能性があるのは主に成犬で、それもごくまれなケースだ。昨年調査した中では、放射性物質が検出された子犬はゼロで、成犬に1匹か2匹いたにとどまるという。

    「そうなるのはだいたいお尻の部分です。何かの上に座ったりするとそうなります」とヒクソンは説明する。

    2017年まで、立ち入り禁止区域にいる犬を連れ出すことは法で禁じられていた。だが2018年夏、里親による引き取りに向けて犬たちを世話するのがメルニチュクの仕事になった。

    明るく快活な性格は、32年前に彼女が経験した惨事とは対照的だ。メルニチュクが6歳だった1986年、チェルノブイリ原子力発電所の4号機が爆発した。史上最悪の規模で大量の放射性物質が放出され、土地を汚染し、そこに生きる人、動物、植物のすべてが長年にわたり影響を受けている。

    メルニチュクは子犬たちのお気に入りの曲「Despacito」に合わせて一緒に踊る。子犬の名前はみな著名な作曲家からとった。「この子たちは歌うのが好きだから」と言う。

    「私たちスタッフは、ここにいる犬のことはすべて把握しています」と、メルニチュクはロシア語で語る。

    「それぞれの体の模様、性格、顔つき。最近ではちょっと見ただけで、この犬は今日は元気がないなとか、何か不安そうにしているなとか、わかるようになりました」

    事故後に2年間、避難先のキューバで過ごした。それ以外でウクライナを出たことはない。外国へ行く友人たちには、お土産に冷蔵庫のマグネットを買ってきてもらう。そして世界中のさまざまな国を訪ねる自分を思い描く。世話をしている犬たちが西側の国で新しい家を見つけるのだと思うとわくわくする。だが、犬たちが旅立って自分は残されるのが悲しい。

    「私たちも犬と一緒に連れてってほしい」。冗談めかしてそう言った。

    原発事故があったとき、メルニチュクは7歳の誕生日を1週間後に控えていた。事故で28人が亡くなり、大勢の人が生涯にわたって病を抱え、放射線の影響は次の世代にも及んでいる。

    一つの時代を生んだ原発事故だった。最初に接触した人々は皮膚がはがれ落ち、ゆっくりと少しずつ死を迎えた。原発近くの住民はがんを発症したり、回復することのない健康被害を抱えた。妊婦は流産し、病院は遺体保管場所と化した。放射性物質は風に乗ってソ連全土へ拡散し、やがて欧州にも到達した。そこでようやく、何か深刻な事態が起きていることを世界は知ったのだった。それまでソ連は事実を隠そうとした。

    メルニチュクの一家は原子力発電所に隣接する町、プリピャチに暮らしていた。住民の大半が原発に関わる仕事につき、メルニチュクの両親も母親がクレーン運転士、父親は技術者として働いていた。

    事故後の混乱でメルニチュクは両親、姉妹と離ればなれになり、取るものもとりあえずバスでウクライナ南部の町オデッサへ向かった。放射性物質を除去するため髪を切り、老人ホームで4ケ月過ごす間、両親は娘を探し続けた。

    このとき受けた心の傷は生涯忘れない、とメルニチュクは言う。今も当時プリピャチで暮らしていたアパートを訪れることがある。住所もしっかり覚えている。人が住めなくなったプリピャチの町では現在、見学にやってくる観光客を迎え入れている。

    両親、姉妹と再会したメルチュニクは避難先としてキューバへ渡り、一家はそこで2年ほど暮らした。父親はそこでも原発建設の仕事につき、メルニチュクはキューバの太陽と海を満喫した。「今でも、あのとき食べたマンゴーの味を覚えています」と、振り返る。

    原発事故はプリピャチと周辺の村、そして国全体のすべてを変えてしまった。避難を余儀なくされた住民はソ連軍の兵士によってバスで移送され、必要な書類や衣類のほか、多くを持ち出すことは許されなかった。食料に乏しい冬に備えて作物を育てていた畑は放置して出て行くしかなく、牛や猫、犬などの動物たちも同じ運命にあった。こうした動物はのちに兵士たちの手で銃殺され、まとめて埋葬された。動物たちが飼い主を追って町の外に出て、放射性物質が拡散するのを恐れたためだ。

    今、スラヴィティチにいる犬の多くは、そうした殺処分や長く厳しい冬、野生動物の脅威をくぐり抜けて生き延びた犬の子孫にあたる。外部から立ち入り禁止区域へ迷い込んだ犬や、世話ができない飼い主に捨てられた犬もいる。

    地元住民も犬たちを保護する活動に加わっている。チェルノブイリに住むある女性は、できる限りの犬を世話しているが、食べものとシェルターが足りず、子犬が無事生き延びるのは難しい、と話す。CFFのヒクソンの推定では、立ち入り禁止区域に生息する犬は6歳まで生きられないという。放射能の影響ではなく、食べ物とシェルターが不足しているからだ。とりわけ冬場は厳しい。それでも、地域の人が引き取ったり、近くを行き来する犬に餌を与えたりしている。ここではよく見られる光景で、住人たちは暗黙のうちにそうしているという。

    「犬の健康状態がすごくいいことにとても驚いています。ちゃんと食べて栄養がとれているんです」。CFFと協力する獣医のジェニファー・ベッツはそう話す。

    「ちゃんと食べて、必要なものが行き届くように地域の人たちが気にかけています。そのことに驚きました。みなさん本当にここの犬が好きで大切にしているんです」

    6月のある晴れた日、ボランティア数人と犬の捕獲チームが町の病院に集まった。地図を見ながら、人が住んでいると思われる地域を特定していく。人のいるところに犬もいるはずだと考えたからだ。ロブ・スナイダーとミシェル・クランシーは住宅が立ち並ぶと思われる一角へ向かったが、通りに人の気配はない。歩いていると1匹の犬が現れた。怖がって吠え立てたが、二人がソーセージを取り出して見せると後ずさりして反応した。次に出会った数匹はおやつを欲しがり、すぐさま地面にあおむけになって尾を振ってみせた。なでてやると毛が抜け落ちた。

    「ここでこうしているときが何より幸せです」。じゃれつく5匹ほどの犬に囲まれ、クランシーは腰を落としてそう話す。まもなく犬たちは保護された。スタッフが抱えあげるほか、餌でケージに誘導したり、吹き矢で麻酔薬を打って眠らせることもある。

    保護した犬はCFFが運営する仮設の動物病院へ運ばれる。まず脚に小さなテープを貼り、個体の区別がつくよう記録する。線量計で放射線量を測定し、専門スタッフが血液サンプルを採り、必要なら獣医が診る。麻酔を打った場合は回復まで手助けをする。

    動物病院には、間に合わせで作った設備や器具が多く目につく。犬の放射線量を測るのに使う箱は鉛の板を5枚合わせたもので、どこへでも運べる。獣医として犬の健康管理を担当するベッツの治療室では、アイロン台を治療台にし、空の飲料ボトルをテープでハンガーに固定して輸液入れに使っている。

    「何でもあるものを使って作りますよ。アイロン台は何かと役に立ちます」とベッツ。

    「みんな、必要に応じてその場で工夫するのには慣れています。台が低すぎれば、外でレンガを見つけてきて台の脚の下に入れたりしますし」

    チェルノブイリへ来る前、ベッツは5年間でベリーズ、メキシコ、ペルー、ハワイを回り、身寄りのない動物を保護する活動をしてきた。もともとは米国オレゴン州ポートランドが拠点で、世界の動物保護に取り組む団体「Veterinary Ventures」の運営に携わる。チェルノブイリ入りにあたって安全性を懸念していたが、犬については手術の前後に専門チームによる放射線量の確認が行われている。

    「ここの子犬は自分たちだけで生き抜くことはできません」。手術から回復中の犬が休むための部屋を指し、ベッツはそう語る。

    「子犬が成長すると、1匹が生涯に産む子犬は64匹になる可能性があります。つまり1匹に避妊手術を受けさせれば、行き場のない子犬64匹が路頭に迷う事態を防げるのです」

    手術が終わると、成犬は元いた場所へ返し、子犬は近郊の町スラヴィティチにある厩舎へ送られる。スラヴィティチは立ち入り禁止区域の外にあり、事故後に造られた町だ。清潔で整然とした小さな町には、原子力発電所で働く人やボランティアが暮らす。町にはいたるところでチェルノブイリを思わせるものが目に入る。地域の教会には、原発事故を神の業としてとらえた絵さえある。そんなスラヴィティチで、メルニチュクは子犬たちを世話している。

    メルニチュクがヒクソンと会ったのは2017年だった。息子が11回目の手術を受けるとき、CFFが費用を支援したのがきっかけだ。事故後に誕生した子の多くに生まれつき疾患や障害があるが、メルニチュクの子も骨に影響が出ている。CFFは以前から周辺地域の原発労働者や子ども、犬の支援をしていた。1年後、子犬の里親プログラムを立ち上げた際、ヒクソンは犬の世話をするスタッフとしてメルニチュクを迎えた。

    CFFは当初、原子力発電所の近くに病院を開いた。ヒクソンによれば、原発で働く労働者用の食堂があり、そこに犬が集まってきたからだ。今も、昼時になると犬たちがおこぼれに預かるのを期待してやってくる。そのそばには冷却水を供給するための池がある。奇怪な巨大ナマズがいるとして有名になったが、労働者によるとこのナマズはパンくずをやるのと引き換えに腹をなでさせてくれるという。犬たちと同じだ。

    2018年夏、CFFは処置が必要な犬を探して立ち入り禁止区域内を回り、仮設の動物病院を3ケ所に設けた。うち1ケ所はチェルノブイリのレーニン通りにある。かつては主要道路だったが、今は屋根が崩れ落ちて打ち棄てられた家が並ぶ。現在、チェルノブイリの町には、一度に3週間以上滞在することは禁じられている。放射性物質がいまだに残留しているからだ。外出していい時間にも厳しい制限がある。

    2018年以前、原発と立ち入り禁止区域の当局は、ワクチン接種と除染を済ませた犬であれば区域外へ出してもよいと許可を出した。CFFはとりあえず用意した病院施設で必要な処置を施したあと、犬たちを通りに放していた。現在は動物保護団体SPCA Internationalの協力と政府の許可が得られ、40匹以上の子犬がアメリカ、カナダで新たな家を見つけられることになった。

    犬の保護に乗り出すため、CFFは原子力発電所の管理部門に働きかけた。ロシアとウクライナの間に起きた紛争の余波でワクチンの費用が高騰し、入手困難になっていた。狂犬病ワクチンも例外ではない。何らかの手を打つ必要があった理由のひとつがここにある。ヒクソンは原発の労働者から、犬の数を間引く仕事を誰かが請け負ったものの、役目を果たさなかったのだと聞いた。CFFはこれを受けて、立ち入り禁止区域周辺の犬の数を人道的に減らすことを目指し、5年計画の実施を決めたのだった。

    子犬の里親プログラムはCFFへの関心を大いに集めた立役者だが、もともとCFFを立ち上げたときの理念とも結びついている。チェルノブイリの立ち入り禁止区域にいる、経済的に厳しい状況にある人たちが生活していけるよう支援することだ。

    ウクライナは現在、深刻な景気後退に陥っている。ロシアとの紛争を経て、景気はますます悪化した。スラヴィティチの病院に勤務するある医師は、患者一人につき政府から支払われる額は17米ドル程度だと打ち明ける。ほんの数年前は50ドルから70ドルだった。それだけでは薬や食事、その他必要なものをまかなえず、患者に持ち出しを頼むことも少なくないという。

    2016年11月、ヒクソンとカンバリアンはCFFを立ち上げた。きっかけの一つが、立ち入り禁止区域へ向かう列車の中で目にしたあるできごとだった。少ない年金ではがん治療の費用がまかなえないというある原発労働者の女性のために、寄付を募る封筒が回ってきたのだ。

    「自分たちにはもっとできることがあるだろう、という思いがわいてきました。今のこの現状よりもいい未来を手に入れたい、そう思ったのです」とヒクソンは言う。

    CFFの資金は多くが医療関係に使われる。加えて、自身も養子であるヒクソンは地域の孤児院の訪問にも心を砕き、バスケットボールや水鉄砲などのおもちゃを子どもたちに届けている。CFFはこれまで、薬と医療の補助金85件を原発労働者に交付し、12家族に手術費用を支援した。治療で近隣の町へ出向く子どもたちの足になるバンを購入するため、資金援助したこともある。

    スラヴィティチの病院は財政が逼迫しており、個別のニーズに応える余裕はない。施設自体は清潔できちんとして見えるものの、使われている機器はいつの時代かと思う代物だ。明るい色のプラスチック製や、10年以上前の機械もある、と病院の副ディレクターを務めるエレーナ・スガニアカは話す。

    「アメリカのTVドラマに出てくるみたいな設備があればいいのに、と思います。モニターのついている装置が」

    CFFの支援を受け、新たに導入できた設備もある。だが問題は他にもある。以前スラヴィティチの病院でディレクターをしていたヴィクトル・シレンコによると、同市の結核罹患率は10%増加している。

    「みんな健康を優先しないんです。生き抜くことが優先ですから」

    保護から2ケ月後、14匹の子犬がニューヨークの空港に降り立った。スラヴィティチから首都キエフまで車で3時間、そこからアムステルダム経由でニューヨークへ飛ぶ長旅だった。

    「それはもう大変ですよ」とヒクソンは言う。「とにかく犬のふんが散らかった犬舎をきれいにしなくちゃいけませんから」。

    到着後、空港のシェルターにとどまった後、里親に引き取られていく子犬もいる。その他の子犬はマンハッタンへ向かい、スタッフと共に取材を受けてさまざまなメディアに登場した。BuzzFeed Newsもその一つだ。

    「みなさん子犬を見ると、『とてもきれい』『耳が大きい』と言います。子犬はドアに映った自分の姿を見て、立ち止まって吠えたりします」とヒクソン。

    ニューヨーク訪問後、ヒクソンはウクライナでの永住を決めた。電話で取材に応じた彼は、チェルノブイリで観光客が残していくごみの清掃に関わりたい、地域の住民が医療を受けられるようもっと後押ししたい、と今後の取り組みに意欲をみせた。また、引き取られた子犬は今のところ返されることもなく、すべて里親の元に落ち着いている、とうれしそうに語った。そして同じ親から生まれた子犬のきょうだいがオハイオ州で再会したんですよと言って動画を見せてくれた。

    それからふと、CFFの支援で手術を受けて歩行補助用具を贈られた13歳の男の子が、初めて自分で歩けるようになったのだと話した。

    「本当にすばらしいことです」

    だがこうした成果は、引き取られていく子犬たちの物語とは違い、おそらく世界のニュースで大きく取り上げられることはない。

    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:石垣賀子 / 編集:BuzzFeed Japan