日本、そして世界を襲った新型コロナウイルス。緊急事態宣言を経て一度は収まったものの、再度感染者数は増加傾向にあり、今も「元通り」とは言えない日々が続いている。

写真集『東京、コロナ禍。』を上梓した初沢亜利さんはこの数カ月、新型コロナに直面する東京の街を歩き、人々の生活を丹念に撮り続けてきた。
レンズを通した世界は、彼の目にどう映ったのか。第一線のカメラマンが肌で感じた東京の「変化」を聞いた。

馴れ親しんだ街こそ、難しい
――写真集の冒頭に「年明けから少しずつ東京の街に出て」とあります。新型コロナの流行をきっかけに撮り始めたのではないと思うのですが、何かきっかけはあったのでしょうか。
大学時代に写真を始め、卒業後も含め数年は東京を撮っていました。東京新聞の都内版で1年半、150回にわたって写真とエッセイの連載もやっていました。
20代の終わりから、少しずつ外に目を向けるようになり、イラク、北朝鮮、東日本大震災の被災地・東北、沖縄、香港と周り、計5冊の写真集を作ってきました。

今年に入り、約20年ぶりに東京を撮ってみようと思いました。
きっかけは些細なこと、信頼している写真編集者に「自分の暮らしている空間を撮り、1日1点SNSに写真をアップしていったらどうか?」と言われたからです。あえて真に受けて、数日後から撮り始めました。
この20年間、東京という街は常に自分の目の前にありました。でも、撮ろうとすると、見るようになる。変な言い方ですが「見えている」と「見る」は違うんです。
馴れ親しんだ街こそ、撮るのが最も難しい。外国にいる時のような刺激がないわけですから。歩いて撮ることに身体が慣れてきた頃にコロナ禍に突入してしまいました。

はじまりは横浜だった
――新型コロナの影響を肌で感じたのはいつ頃からですか。
始めに感じたのは、東京よりも横浜でした。
横浜港に停泊中のダイヤモンド・プリンセス号でクラスターが起き、連日ニュースになりました。ウイルスが広がったのが中国の武漢からだったことで、横浜中華街からも人影が消えました。銀座や渋谷、新宿よりも横浜の方が一歩先に緊張が走った、という印象です。

東京で大きく変化を感じたのは、志村けんさんが亡くなってから(3月29日)です。そこから市民が緊急事態宣言を進んで待望するようになりました。
東京と一括りで言っても、地域によって違いは大きかったです。
テレビで映される銀座、渋谷、新宿には人は行かないけど、自分の街の商店街には買い物に出ていましたから。例えば中野、高円寺、阿佐ヶ谷辺りは、かなり人が出ていました。

どの程度自粛することが正解なのか誰もが分からずに、戸惑いながら、恐る恐る街を歩いていたように感じます。
聴覚的に最も変化を感じたのは、3月29日から羽田新飛行ルートが運用を開始したこと。
毎日午後3時を過ぎると、3分おきに旅客機が低空を飛ぶ音を聞きました。
オリンピックに向けて外国人客が増える、という前提での運用だったことを考えると、皮肉な光景でした。
「不要不急」は誰が決める?
――人気がない東京は知らない街のような、でも都市の本質がいつもよりずっとさらけ出されたような、不思議な感覚を持ちました。初沢さんの目には、感染症の打撃をうける東京はどのように映りましたか。
人がいない景色に対する感動、あるいは感慨みたいなものはありませんでした。毎年正月にみる光景ですから。

写真集には人がいない引きの風景は数点しかありません。あまり撮る気が起きなかった。
その理由のひとつは、人が1人もいないとスナップ写真ではなく、風景写真になってしまうからかもしれません。いわゆる風景写真というものに、見るのも撮るのも興味がないんです。
「出てはいけない」と言われているのに、外に出て、街をさまよっている人々の方が興味を引きました。居酒屋で昼間から酒を飲む「不要不急」の人もたくさん見かけました。
どの程度の自粛が適度かなんて誰にも分からないし、不要不急の基準は考え方次第ですから。


自分自身について言えば、コロナ禍を撮ることが、果たして不要不急なのか? と考えることもありました。写真をアップした時に「ステイホームしてください」というコメントも時々もらいました。
「気になっているのは、同調圧力が蔓延したこと」
――この数ヶ月を経て、初沢さん自身の中で生活や考え方、写真との向き合い方など変わったことはありますか。
残念ながら生活も考え方も、写真との向き合い方も変わっていません。
毎日満員電車で会社に通っていた人達にとっては大きな変化があったことでしょう。テレワーク化が進み、家族との時間が増えたことについて、知人の多くは肯定的に捉えているようです。
その意味で、自分には生活面の変化もありませんでした。撮影の依頼はゼロになりましたが、暇をもて余すくらいなら、街に出てちゃんと時代を切り取っておこうと、と考え方を少しシフトしただけです。

違う言い方をすると、僕は震災翌日から東北被災地に入り死体が転がっている光景を散々見ましたし、その後も1年通って撮影をしました。そのことで考え方が変わった、ということもありません。もちろんショックが大きかったのは確かですが。
福島の原発事故を経て「日本が変わった」という人は多かったし、今回もそういう言説が出てくることでしょう。
しかし、本質的に人間も社会も国も変わったとは感じません。人間は忘れやすく、欲深い生き物ですから、消費生活を大きくシフトさせることは、とても難しいことだと思います。
その中で、一つ気になっているのは、東北の震災の時と同じような同調圧力が蔓延したことです。

5月に厚労省前に行ってみたら「絆 がんばろう!日本」という鯉のぼりが吊るされていました。恐らくは3.11の時に作られたものを倉庫から持ってきたのでしょう。
第1段階が3.11、第2段階がコロナ禍。日本人の“一体感”が段階的に高まっていくことへの違和感は、この数ヶ月ずっと持ち続けています。


『東京、コロナ禍。』写真展
開催期間:7月20日(月)~9月26日(土)
場所:山﨑文庫 東京都港区赤坂6-13-6 赤坂キャステール1階
月~土 16時~26時(日曜休廊)
TEL 03-5544-9727
初沢亜利(はつざわ・あり)
1973年フランス・パリ生まれ。上智大学文学部社会学科卒。
第13期写真ワークショップ・コルプス修了。イイノ広尾スタジオを経て写真家として活動を始める。東川賞新人作家賞受賞、日本写真協会新人賞受賞、さがみはら賞新人奨励賞受賞。
写真集に『Baghdad2003』(碧天舎)、『隣人。38度線の北』『隣人、それから。38度線の北』(徳間書店)、『True Feelings』(三栄書房)、『沖縄のことを教えてください』(赤々舎)。