元彼に人種差別ジョークが不快だと伝えたことがある。
おもしろくないし、あと関係ないけど、私もミックスだよ、と伝えた。
こんな返事だった。「君はまったく違うじゃないか」

「母は、モーリシャス共和国の出身です。マダガスカル共和国の東の沖合にある小さな熱帯の島です」
自分の人種的・文化的なアイデンティティを体裁よく説明するのに使っている言葉だ。
誰かが私の家族写真を見て、「お母さんは肌の色が黒いんだね!」と言ったり、従姉と出かけて従姉の友だちに親戚だなんて信じられないと言われたりするときに、この説明を使う。
たいていは居心地の悪さを笑い飛ばし、ジョークのひとつでも言う。「夏にはかなり真っ黒になるのよ」。むきになって弁解している自分に気づく。
自分の出自を伝えても、みんなが信じないかのように。

白人が多くアッパーミドルクラスのシドニー近郊・ノーザン・ビーチズ地区に住む母も、自分のアイデンティティを守らなければならなかった。
私をベビーカーに乗せて歩いていると、私の赤みがかった金髪の巻き毛と、母の黒い肌を見て、無作法で人種差別主義の人は、母のことを乳母だと勘違いした。
「私の子どもです」。母は再びむきになって宣言しなければならなかっただろう。
シドニーの豊かな郊外で、黒人であることはどういうことかを示す一例だ。
母は私たちに、よくモーリシャスのクレオール語で話しかけていた。しかし、「よそのお母さんみたいに話さないんだね」という兄の一言で、やめてしまった。

母は1967年に12歳でモーリシャスからシドニーに引っ越してきてから、しばしば居心地の悪さを感じていた。
母は青春映画『ハイスクール・グラフィティー/渚のレッスン』に出てくるような学校に放り込まれた。
全校集会では、金髪の頭と日焼けした白い肌ばかりだった。
母は、アイロンで無理やり直毛にするまで、腰まで伸びた厚みと癖がある黒髪のせいで「生け垣」とあだ名をつけられた。

私のモーリシャス側の家族は、まだ「白豪主義」が続いている時代のオーストラリアに入国した。
それは、1973年まで続いた移民制限法で、オーストラリアへの有色人種の移住を防ぐ法律だ。それからまだ、約50年しか経っていない。
一族がパスポート用の写真を最初に提出したとき、この政策のせいでオーストラリアへの移住申請は断られた。
顔に白粉をはたいてから写真を撮り直さないとだめだと知人に言われた。そして2回目は通った。
子どもたちがよりよい機会を求めてモーリシャスから出ていくことで、家族がばらばらになってしまうことを祖父母は恐れた。
そのため、家族がひとつでいられるようにオーストラリアへの移住を決心した。
これは勇敢な冒険だった。
親しんだものすべてを置いて、小さななじみ深い島からもっと大きな未知の島へと海を渡る巨大な船に乗り込んだのだ。
それぞれの港で下船しながら、どの街を故郷と呼べるか決めかねた。
パースはハエが多すぎた。メルボルンは寒すぎた。最後の寄港地シドニーがちょうどよかった。

モーリシャスから来た家族が経験した人種差別は様々だった。
「自分は人種差別主義者ではない」と間違って主張する人によるさりげない失礼な発言から、あからさまに有害で意図的に憎しみに満ちたものもあった。
首相を含む多くのオーストラリア人は、オーストラリアにはアメリカほど人種差別はないと主張する。
しかしこの国が、盗まれた土地で、先住民の虐殺と今も続く不当な扱いの上に築かれていることを認めない。
黒人であるということで、人種差別、暴力、死の危険に今でもさらされる。
みんな積極的に話そうとしないだけだ。
無意識であれ意図的であれ、私の黒人の家族が受けた苦痛だけで何千もの言葉を綴ることが私にはできる。

私の母は、一瞬で前向きであることが分かる類いの人だ。
いつも笑顔で、その生き生きとしたエネルギーは人にうつる。
母は幼稚園で働いていたことがあり、園児に1度言われたことがあった。
「あなたは子どもなの?大人なの?」
母からにじみ出ているのは、そんな熱意であり歓喜だった。
また別のときには、顔が汚れているから洗いなよ、と園児から言われたこともある。
「あいつには聞くな。あの黒人女は何も知らない」と幼稚園の管理人が言っているのを耳にしてしまうこともあった。
保護者がこれを目撃し、通報したところ、この管理人は首になった。
処罰措置は早かったものの、このような人種差別の言葉は、何代にもわたって影響した。
私たち家族の物語の中に、細い糸のように織り込まれた。何十年経った今でもこうして綴っている進行形の物語だ。
その言葉を発した女性にとって、その言葉はどんな意味を持っていたのだろうか。
彼女の子どもたちはあの話を知っているのだろうか。

家族の経験を聞きながら育っても、自分自身も多ルーツであっても、私は白人に見られる。
自己紹介をして、「元々はどこからきたんだ」と尋ねられるのでは、と不安に感じたことは一度もない。
自分みたいな外見の人を、Netflix、YouTube、Instagramなどあらゆるところで見かける。
自分の肌の色の化粧品も簡単に買える。
警察に止められる心配をしたことはないし、外見にもとづいて自分の知性や技能を推測されることもない。
知らない人から人種的中傷の対象にされたこともないし、自分の肌の色にもとづいた暴力の脅威を感じたこともない。

「母は、モーリシャス共和国の出身です。マダガスカル共和国の東の沖合にある小さな熱帯の島です」
大学のクラスや新しい仕事を始めるときなどの自己紹介で私が使う説明だ。
自分に関する面白い事実を言って、と尋ねられて、自分はミックスだと明かすのは、私が白人に見られる特権を完全に縮約している。
私は白人に見られるので、そうじゃないと伝えるとみんな驚く。
自分の人種的なアイデンティティに関して悩んだこともあったかもしれないけど、年がら年中そのことを考えているわけではない。
経験を通してではなく、家族から聞いたり、人種差別について学んだりする特権を得ている。

私の特権はこれにとどまらない。
私は身体の性別と性自認が同一のシスジェンダーで、健常者で、私立の学校・大学へ通った。
旅行し、満たされない仕事を辞め、海外へ行き、学び続ける金銭面での特権にも恵まれた。
人種に関しては、人生の大半を、ほとんど人種のことは考えないで済む恩恵を受けた。もちろん最近では、誰かが人種差別をすることを言ったら非難するけど、それまではずっと言ってこなかった。
10代のときに砂だらけで人目を気にしてビーチに寝転がっていたときは、母のように肌の色ではなく、自分の体を気にしていた。
波乗りをする男の子に好かれるためや居心地を悪くしないため、人種差別を非難しなかった。
「あの女(bitch)」と呼ばれるのは嫌だった。男友達があとで言ったように、私の問題ではないので非難すべきではないのでは、と心配した。この問題について話す経験や権利がないように感じていたのだ。
しかし彼は間違っていた。これは私自身の問題だし、白人として彼自身の問題でもあるのだ。
自分たちの特権を認め、世界中に蔓延している全体的な人種差別を解体することは、白人至上主義の恩恵を受ける人たちの責任である。

私にとってモーリシャスのアイデンティティは複雑だった。
ミックスである他の人のことを、私は代弁できない。文化と人種の問題は、極めて個人的なもので、言葉にすることが難しかったり、落ち着かなかったりすることが多い。
私がもっと若かったころ、母が肌が黒い「ベイビー・ボーン」赤ちゃん人形を指さして言ったことがある。
「あなたもこうだったかもしれないのよ」と。
モーリシャスの人に見え、家族写真に馴染むように、もっと肌の色が濃かったらよかったのに、と私はいつも思っていた。
自分でも分かっていなかったのは、白人に見えることで自分が得てきた特権だった。
これまでの人生でつらいことがなかったわけではない。でも肌の色で、もっとつらくなることはなかった。
自分のアイデンティティについて不快だったり不確かだったりすることで、もう黙っているのはやめる。
亡くなる何週間か前に祖母は、「白人に生まれたかった」と言っていたから。
私が馴染めるように、母が自分の声と自分の文化を押し殺したから。
毎回、どこにだか完全には分からなくても、私は馴染むことができるから。
毎回うまくできるか分からないけど、やってみることが重要だ。
ミックスに見えないかもしれないけど、ミックスだから。
そして私自身も自分のストーリーを伝えたい。

あまりにも長い間、怒り、教育、実力行使の労苦を、黒人たちは背負ってきた。
見かけが白人に見える私にできることは、白人の人たちが自分たちの特権でやっているべきことでもある。積極的な反人種差別主義者として行動することだ、
自分の特権について批判的に考え、常に説明できるように。
意図がなんであれ、友だちが人種差別的なことを言ったときに指摘できるように。
黒人の著者が書いたものをもっとたくさん読み、黒人のビジネスをもっと支援し、黒人が作ったり、出演しているテレビ番組や映画を見て、黒人が受けてきた全体的な抑圧の歴史について学ぶ。
できる範囲で寄付をし、請願書に署名し、抗議し、政治家に手紙を書き、声をあげる。
黒人の声に耳を傾け、広める。
黒人の活動家、著作家、学者であるアンジェラ・デイヴィスの言葉がある。
「世界を根本的に変えることが可能であるかのように行動しなければなりません。そしてそれを常に続けるのです」
この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:五十川勇気 / 編集:BuzzFeed Japan