災害と死と分断の時代に、絶望する以外に私たちにできること

    美術家の奈良美智さんが震災や難民キャンプでの体験を通じて語る。

    人は死ぬ。病気で、事故で、そして、災害や紛争で。残された人に何ができるだろう。今も苦しむ人に何ができるだろう。

    美術家の奈良美智さんは、東日本大震災をきっかけにしばらく絵が描けなくなったという。芸術は人を救えないという思いに囚われたからだ。

    あれから8年。奈良さんは今、再び作品の制作に取り組んでいる。そして、今年の春にはシリア難民キャンプを訪問した。シリア内戦では400万人以上が難民となり、死者は37万人を超える。世界最悪の人道危機だ。

    人は死ぬ。世界のあちこちで。そして、いつかは自分も。奈良さんは、何もできないという絶望とどう向き合っているんだろう。

    (C)JPF / Noriko Takasugi

    きっかけは東日本大震災

    奈良さんのシリア難民キャンプ訪問は、紛争や災害からの復興支援に取り組む認定NPO法人「ジャパン・プラットフォーム(JPF)」の招きによるものだ。

    奈良さんは、東日本大震災のときにもJPFと共に支援活動に取り組んだ。ギャラリーからの寄付や、メッセージの寄稿などだ。

    大きな目でこちらを見つめる少女像などで、世界的に知られる奈良さんは、「NO WAR!」と題した画集を出したり、社会的な出来事にコメントしたりしてきた。

    (C)JPF / Yoshitomo Nara

    奈良さんの作品を通じて支援を呼びかけるJPFのポスター

    今回、JPFが奈良さんを難民キャンプに招いたのは、いくつかの理由がある。

    奈良さんが直接的に難民キャンプのことについて発信をする、というだけではない。アーティストが現場を訪問し、そこで見たり、聞いたり、感じたりしたことがその後の作品を通じて、世界に伝わるかもしれない。そう考えた。

    この記事の筆者である私も、難民キャンプや災害避難所を取材したことがある。取材し、記事を書きながら、人を助けられない無力感に苛まれた。

    だから、奈良さんに話を聞いてみたかった。

    生まれ故郷の青森の訛りが混じる、柔らかな言葉で奈良さんは語りはじめた。

    Daisuke Furuta

    「社会的な関心が身近なものとしてあった」

    ーーなぜ今回、難民キャンプに行こうと思ったんですか。

    行けるところがあれば、行ってみたい。そういう性格なんだよね。子供の頃から。初めて海外に行ったのは1980年、20歳になったばかりのとき。一人で海外に行くバックパッカーは珍しくて。『地球の歩き方』は国別になってなくて、厚さ1.5センチの『ヨーロッパ編』しかなかった。英語もろくに喋れなくても、行けば何かを見られるでしょ。

    ーー難民キャンプ、初めてではないですよね。

    日本の大学院を卒業して、1988年から2000年までドイツに住んでたときには、難民キャンプがすぐ近くにあったんです。向こうでは、ニュースを見ていても、例えばパレスチナ問題や国際問題がずっと流れてる。そういう社会的な関心が身近なものとしてあったんです。

    2000年に日本に戻ると、自分が意識していないと、そういうニュースが入ってこなかった。そんなときに雑誌の企画でアフガンに行きませんかって誘われた。2002年、アメリカがタリバンを攻撃したあとでした。

    初めての難民キャンプ、初めての紛争地。ボロボロのテントに掘っ建て小屋、そこで暮らす人たち。その姿を見たり、聞いたりすることで、ただ頭の中にある情報が、身近なものになっていきました。

    その経験があったから、今回も行ってみたいと思ったんです。

    ザータリ(Zaatari)難民キャンプ。8万人程のシリア難民が暮らしている。2012年夏の設立当初から、難民人口に対して環境の不備に加え、犯罪、暴力事件などが多かったが、最近は落ち着いているそうだ。1週間で平均80人の赤ちゃんが生まれている。

    「作品のために行くわけじゃない」

    ーーそもそも、なんのために行くんでしょう。

    作品を作りに行くわけじゃない。

    具体的にこれだというのは難しいけれど、制作への影響というよりも、自分という人間の幅そのものが広がる、人間が一つ大きくなる感じがある。

    それは行って帰ってきた直後ではなく、1年なり2年なりたってからだったりする。その中でも...、うまく言えないな。。。

    作品を作るためにいくわけではない。自分を大きくする成長欲はある。でも、そのために行くわけでもない。。。ごめんなさい。やっぱりうまく言えない。

    ーー少なくとも、何かが変わる感覚があるんですね。

    そう。ヨルダンにしても、アフガンにしても、台湾でも韓国でも、自分が知らない国、知らない人と接した時に、いろんな考えが世界にあることがわかります。

    一つとして、これで全てというものはないんです。多種多様な重層的なものがそこにはある。いつも、どんなところに行っても、行って良かったと思う。行かない方が良かったと思うことはありません。

    ーーそこで影響を受けた何かが、作品の中に出てくるんでしょうか。

    作品の中に見えないかもしれないけれど、でも、そういった経験を通じて、何かが入っていることは確か。あるいは今までの作品を見返してみると、すでに行く前にその答えが絵の中にあったりします。

    ーーどういうことでしょう。

    例えばね、ある時アフガンでみたことが絵の中に現れていることに気づく。でも、それは直接アフガンのことじゃなくて、それを「シリアのキャンプに行った後にこれができたよ」と言っても、みんなが「なるほど」というような何か。

    場所よりも、場所を超越した何か。それに出会いたくて行っているんだよね。

    「基本的に自分と同じ。人間がそこにいる」

    ーー奈良さんがキャンプ訪問中に、TwitterやInstagramにアップしていた写真や動画が印象的でした。報道写真でよく見る悲惨な生活というよりは、食卓を囲む家族の団欒や、奈良さんに微笑む子供達。日常生活に近いイメージでした。

    Instagramに写真をアップしたら、同じ写真なのに、笑顔がいいねという人と、かわいそうという人がいました。人によって見方が違いますね。

    何がかわいそうなのか。ボロい服がかわいそうなのか、キャンプにいることがかわいそうなのか、僕にはわからない。そういう風に見る人がいることがわかって、びっくりしました。

    ーー特に子供の写真がすごく多いです。

    僕はなかなか自分から近づいて写真を撮ることができなくて、寄ってくる人を撮る。子供はどこに行っても好奇心が強いし、恐れることなく寄って来ますよね。そこで、自分が固定観念でビビっていたとわかるんです。

    ーー奈良さんの中にもある「固定観念」って何でしょう。

    うーん。。。

    難民キャンプに来ている人は、紛争の中で身内の死を見たり、悲しいことがあったりして、そこにいる。爆撃や社会の荒廃を見てきた人たちに、どう接したらいいんだろうという気持ちはあるよね。でも、行ってみると、そういった固定観念じゃなくて、基本的に自分と同じなんです。人間がそこにいるということです。

    「寄り添う資格は、あるとしたら、誰にでもある」

    ーー日本から遠く離れ、言葉も文化も違う。37万人が殺され、400万人が難民になり、世界最悪の人道危機。そこで暮らす人たちが日本で暮らす私たちと「同じ人間」という感覚は、何から生まれてくるんでしょうか。

    どう言えばいいかな。。。

    例えば、僕にとっての身近な人の死は、父親や友達の事故死。その時の悲しみから、想像力を働かせることはできるよね。

    僕は父と仲が良かったわけじゃない。でも、父の葬式に信じられないぐらいたくさんの人が来て「こんなに慕われていたんだ」と感じた。一人の死に対するたくさんの悲しみ。その悲しみを共有することは、不自然じゃない。それが自分の家族でも、難民キャンプでも。

    ーー近しい人の死を悲しむ自分のことから想像力を広げていけば、悲しみは共有できる、と。

    悲しみを共有することについては、東日本大震災のときも、同じことを思いました。被災地の人は優しい人が多くて、自分の身内が亡くなっていても「もっとひどい状況の人がいるから...」という言葉が出てくる。

    それは「自分はマシな状況だ」という気持ちじゃないと思うんです。誰かに寄り添う気持ちがあるから、出てくる言葉。難民キャンプや被災地に行ったら「自分にはこの人たちに寄り添う資格があるんだろうか」と思ってしまう。でも、寄り添う資格は、あるとしたら、誰にでもあるんです。

    東日本大震災を通じて神戸の人たちが東北を思ったり、東北の人たちが熊本の地震被災者を思ったり。経験を通じて、相手の身になれる。地震でなくても、何か少しでも自分の中にある経験を通じて、人に寄り添うことができる。

    Kiyoshi Ota / Getty Images

    故郷・青森で知った格差。日本は単一の国じゃない

    ーー生まれ育った場所に関係なく、人に寄り添う。そういう感覚を奈良さんが持つようになったきっかけはなんですか。

    青森で生まれ育ったことが大きいと思います。

    小さい頃は青森で何も考えずに幸せに暮らしていたけれど、高校生ぐらいになると、格差が見えてくる。子供の頃は農閑期になったら、全国どこの人たちも東京や自動車工場に出稼ぎに行くものだと思ってた。でも、そうじゃない。自分が住んでいるところは、格差の下の方じゃないかって気づく。

    「なぜ?」と思って調べると、国が高度成長の中でないがしろにしてきたものが見えてくる。水俣病やイタイイタイ病など公害問題も知られるようになって、儲けのために弱い立場の人たちが犠牲になる構図が見えてくる。

    それから、ドイツに留学した経験も大きいです。東欧からの留学生が多かった。ポーランドやハンガリーとか。僕も「外人」だし、マイノリティ同士で仲良くなる。すると、大きな国の周辺で虐げられている国の気持ちがよくわかる。

    韓国の人とも仲良くなりました。韓国も虐げられていた側。その話をしていると、韓国の人は「日本が、日本が」という。

    でも、その日本の中にも経済格差や差別構造があって、虐げられている人たちがいることを説明すると、日本の中にもいろんな歴史があることが彼らにもわかってくる。日本の中にも、韓国の中にもいろんな歴史や社会構造がある。

    日本やドイツや韓国という国単位で人を見るのではなくて、国の中にもある多様性を見るようになったんです。海外に住めば、否応無くマイノリティになる。そこで自分も一人の人間として接して欲しいし、自分もそうする。

    どこに行っても、自分は大きな問題というよりも、そこに暮らす個々の人たちの生活を見ている感じです。シリア難民キャンプといっても、紛争で戦っている現場に行ったわけではないので、そういう内戦をみているわけじゃない。目の前には、日常的な暮らしがありました。

    ーー笑顔がたくさん写ってますね。もちろん、日本で暮らしている人たちから見たら、辛い境遇に思えるのに、なぜでしょう。

    なぜだろう。。。みんな、心のどこかに希望を持っているんじゃないかな。

    「手を差し出すのが隣人だ。同じ地域でも、遠い国でも」

    ーー東日本大震災のときに、こんなメッセージを寄稿していましたね。

    あの震災直後、日本は確かにひとつになった。被災していない人々は「自分たちには何ができるのか?」を模索し、それぞれに実行していた。ほとんどにおいて、それは募金することやボランティアに行くこと、または何かを自粛することであったりした。みんなが被災という恐怖を克服するための意識を持って、何かしようとしていた。

    それは、被災地ではなおさら強かった。自分の不幸と他人の不幸を同等に感じ、避難所での不便な生活の中であっても、秩序を作り出していたし、なにより、耐え忍ぶことを風土の中で実感していた人々の、被災してもなおそう在るように映る姿を、海外のメディアは賞賛した。そのレポートに映し出される隣人の姿に、僕は涙をこらえることができなかった。

    あの時感じた国民の連帯感は、それまで国に対して興味もリアリティも全く持っていなかった自分に、初めてひとりの国の民であることを実感させ、同じ国に住む民としての存在意識を明確にしてくれたのだった。簡単に言えば「隣に住む人が困っていて、手を差し伸べる余裕があるのなら、手を差し出すのが隣人だ」ということだ。それは、同じ地域の隣人でもいいし、隣国に住む人、あるいは遠く離れた国に住む人々でもあるだろう。

    しかしながら、自分が住むこの国である。いつの間にか自粛は消え去り、被災地以外では平穏な生活が戻ってきている感がある。しかし、被災地の復興は、まだまだ人任せでは成り立たないし、ほとんどの人が専門外である原発事故災害に関しては、なおさらそうだ。何かしらの支援を続けなければいけないと思うのだ。

    これからの世の中に、犠牲になった人々は何を望んでいるのだろうと・・・所属や管轄や思想も年齢も、全てがまちまちで亡くなっていった方々が、私たちに何を望むのだろうかと・・・つまりは、何をどうすれば、これからの対策になるのだろうかを考えること。そして、その考えを実行に移していくこと。その未来へのことは、現在しなければいけないことと同時に進めなければいけないのではないだろうかということ。

    私たちは、それを見極め、何かしらの形で被災地の復興に関与していかなければいけない。戦争を経験した人々が、その悲惨さを語り継ぎ、平和の尊さをおしえてくれることと同様に、先の震災が、人々の連帯意識の中で復興していったと語り継がれるように、未来に向けて残さなければいけない人間としての義務を、私たちは持たされているように感じている。

    ーーあの時に芽生えた連帯の感覚は、今も私たちに残っているでしょうか。

    残っていないかもしれない。。。

    けれど、他者に寄り添える心が自分にあることに気づいたことはとても大きかった。被災者の中には自分が好きなタイプの人も、嫌いなタイプの人もいる。でも、そういう区別ではなくて、日本で同じようなものを食べて、同じ言葉を話して、家族がいて、友達がいて、と共通するものが強く感じられた。

    震災後に東北の人たちが集まる祭りをやることになって、東北6県持ち回りで震災の翌年から始まった。そのときに人前で話すことになり、こんな話をしました。

    小学校のときに、隣の小学校とは仲が悪かった。でも、中学では同じ学区だから一緒になって仲良くなる。小学校同士のいがみ合いなんてちっぽけだなってわかる。で、隣の中学と対立する(笑)。高校になるとさらに輪が広がり、オリンピックだと日本というさらに広い枠になる。それまでは東北6県でも青森県は青森県って思っていたのが、先の震災で東北という枠組みになる。

    そうやって、繋がりが広がっていく。

    「君や 僕に ちょっと似ている」

    ーー震災の翌年に開いた個展のテーマは「君や 僕に ちょっと似ている」でした。そういう感覚ですか?

    そうですね。

    全部を同じように分かり合えることは前提にできない。でも、どこかで分かり合えることがある。誰とでも。それが分かり合える部分が大きいと、親友になる。逆に苦手だなと思う人とでも、同じ音楽が好きだったり、どこか分かり合えたりする。国が違っても、文化が違ってもどこか似ているところはある。

    ーー現実にはそういう共通点よりも、違う部分ばかり目につくんじゃないでしょうか。だから人は争うし、無関心が広がる。

    確かにその通り。難しい。教育かなぁ。いろんな人と付き合えば、いろんな個性の中で違いも共通するものも見えてくるはず。でも、どうなんだろう。。。

    ーー僕も教育は大切だと思います。でも、もっと素朴な感覚が必要な気もします。少し自分の経験を話していいですか?

    もちろん。

    難民の少女が語ったこと

    新聞社の東南アジア特派員だった2011年、タイ国境地帯のミャンマー難民キャンプを取材したときのことだ。女の子にインタビューをした。17歳で、独学で英語を少しだけ話せる子だった。

    生まれ故郷のミャンマーの村が国軍に攻撃をされ、タイ側に家族と共に逃げてきたという。辛い記憶なのに、しっかりと話す。その小規模なキャンプには学校もなかった。「できれば学校に通いたい」と恥ずかしそうに打ち明けた。

    もし日本で生まれ育っていたら、成績優秀でいろんな選択肢があったかもしれない。思わず、「夢が叶うとしたら、何が欲しい?」と聞いてしまった。残酷な質問をしてしまったと口にした瞬間に後悔した。

    彼女は少し考えてから、笑顔でこう答えた。

    「ボールが欲しい。小さな子供のための遊具。ここにはボールが一つあるだけで、いつも取り合っているから」

    自分のことではなく、自分より小さな子供達のための遊具を欲しがった。自分も難民キャンプで先の見えない生活を送りながら、より弱い立場にいる小さな子供達のことを思う。そのことに、頭を殴られたようなショックを受けた。

    私がこの話をすると、しばらく考え込むような表情を見せてから、奈良さんは自分の母親の話を始めた。

    貧しくて学校に通えなかった母

    僕の母親はすごく貧しい農家の出身なのね。父親の家はよくいう旧家。母親はちょうど戦争が終わった時に、当時の尋常小学校を卒業する年で、その村で信じられないくらい賢い子で、学校の先生が「女学校に行かせた方がいい」と家に説得にまで来たんだよね。

    当時のことだから「農家の女の子に学問はいらない」って家族が断ってたんだけど、先生があまりにも説得にくるから、母は街の学校に受験に行った。

    筆記試験を受けて、体育の試験もあって、みんなが着替えだした。母親はボロボロの服で、着替えもない。恥ずかしくなって帰ってきた。

    でも、「もったいない」とまた説得されて、翌年も受けて合格した。結局、入学してすぐいじめにあって、夏休みに「もう学問はいらない」って帰ってきたそうです。

    母はすごく頭がいいのに、小学校しか出てなくて不思議だったんだけど、つい最近、そういうことがあったと聞きました。

    母親の実家は貧しいけれど、すごく温かくて、父親の実家は格式張っている感じだった。その両方を見れたのはよかった。

    お金に代えられない精神的なもの。それは東大のようなエリート校に行ったら学べるものじゃないんだよね。僕がドイツで行った美術の学校も、そういうエリート校のようなところだったけれど、そこだけでは学べないもの、得られないものがある。

    家族って、人によっては守るべきもの、いるだけで心が落ち着くもの。色々な意味がある。父母と自分とか、兄弟と自分とか。生まれた時から一緒にいる。お互いを知ってる。そうやって人間が育つ。

    もうちょっと大きくなると、それが隣近所だったりするし。顔が見えて、集団で助け合って生きていく人たち。人間は死ぬのを待って生きているわけじゃなくて、飯食って、寝て、働いて、生きている。

    そのときに家族や、学校だったら仲間や、一番小さな単位がしっかりしているといいなと思うんです。人間嫌だなって思うときって、それがうまくいっていないときじゃないですか?

    「自分の立場と遠くの人の立場を置き換える」

    ーーそれは血の繋がりを前提にした家族だけでなく、共同体、コミュニティのようなものでしょうか。私に話してくれた難民の少女にとっての、同じキャンプで暮らしていた自分より小さな子供達のように。

    そう。俺が思っている家族って、コミュニティ。その一番小さな形が家族なのかもしれない。いろんな形のコミュニティで人と付き合い、支えたり、支えられたりして、成長していくんじゃないかな。

    そうすると、困っている人に対して、最初から関心がないということにはならないんじゃないかな。みんな、優先順位があるから、実際に誰かを助けるのは大変。でも、関心は持つんじゃないかな。

    そして、自分の立場と遠くの人の立場を置き換える。置き換えは、理解しようという気持ちや共感から生まれる。それはお金で買えたり、エリート校に行けば学べるような能力じゃない。でも、国も地域も貧富も関係なく、相手と立場を置き換える能力はあると思う。

    Daisuke Furuta

    何もできない私たちにできること

    インタビューは約1時間。その間、奈良さんは何度も「うまく言えない」と悩みながら答えていた。

    被災地や難民の支援などを報じると「全員を救えるわけじゃない」「偽善的だ」という言葉を投げかけられることがある。

    確かに、全員を救えるわけじゃない。私自身も支援活動をサポートしたことがあるが、正面から「誰を助けられるのか」と問われると口ごもることがある。

    だからこそ、奈良さんが悩みながら話す姿に共感した。朗々と、堂々と語るには、私たちは無力すぎる。

    だからこそ奈良さんも、悩みながら歩み、相手と自分の立場を置き換え、寄り添いたいと心から願っている。

    生まれた国や、立場によって互いを分断する言葉が飛び交う現代。でも、絶望するだけでなく、私たちにもできることがある。

    知ろうとすること、想像すること、相手と立場を置き換えること。分断を超える共感が、そこから生まれる。

    バズフィード・ジャパン シニアフェロー

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