歴史に残る最強のボクサーの一人が、4月9日(現地時間)、21年のキャリアを締めくくった。「フィリピンの英雄」マニー・パッキャオ、37歳。貧しい家庭を助けるために、路上で野菜を売っていた少年は、カネを稼ぐためにボクシングを始め、やがて、フィリピン、そしてアジアの人たちの夢を叶えた。
米国・ラスベガスのMGMグランドガーデンアリーナは超満員。パッキャオが入場するや、「マニー!マニー!」の熱狂的な歓声が広がった。私は、六本木のスポーツバーで観戦していた。ここでも、フィリピン系の人たちが歓声をあげていた。
私の隣に座ったフィリピン人は、日本旅行中にどうしても試合がみたくて、中継のある店を探してきたという。
「今頃、フィリピンではみんなが見ているよ。仕事も、遊びも、犯罪も、全部中止だ。マニーの試合なんだから」
パッキャオがそれほど愛されるのは、単純に世界王者になったからだけではない。不可能とも思える記録を達成してきたからだ。
体重がパンチ力に比例するボクシングは、体重別に17階級に区切られている。複数の階級を制していくのは至難の技だが、パッキャオは6階級でそれを成し遂げた。他に6階級制覇したのは「ゴールデンボーイ」と呼ばれたオスカー・デラホーヤだけだ。
そのデラホーヤはスーパーフェザー級からミドル級まで順番に階級を上げていったが、パッキャオはフライ級からスーパーウェルター級まで、幾つかの階級を飛ばして6階級を制した。その体重差は約20キロに及び、「実質的に10階級制覇」とも言われる。
日本人と同様に体格に恵まれない小柄なフィリピン人が、少しづつ体を大きくして次々と世界王者を破っていく。パッキャオは、フィリピンの英雄であるだけでなく、アジア中を熱狂させた。
声援を送るファンへの感謝を忘れない、その言動も愛された。
2013年11月、パッキャオはWBOインターナショナル・ウェルター級王座決定戦に勝利した。この時、母国フィリピンは大型台風によって甚大な被害を受けていた。
パッキャオはこの試合までに2連敗しており、年齢から来る限界が指摘されていた。しかし、彼は勝った。AFPが、試合後のインタビューの言葉を報じている。
リングに向かう際、パッキャオはいつも笑っている。対戦相手が獲物を狙う殺気立った目線を向けている間も、笑顔を浮かべる。
それは、最後の試合でも同じだった。「ボクシングが好きだ」という言葉を証明するように。
対戦相手はこれまで1勝1敗の好敵手、前WBOウェルター級王者ティモシー・ブラッドリー。
2階級を制した31歳のブラッドリーは、スピードに乗ったフットワークとパンチでパッキャオを攻めた。
37歳のパッキャオに、以前の鋭い踏み込みはない。的確な連打でダウンの山を築いてきたのは、もう何年も昔の話だ。
それでも、パッキャオは下がらない。少しづつ前に圧力をかけ、相手が出てきたところにタイミングよくフックやアッパーを合わせる。
パッキャオは、7回に相手が体勢を崩したところへの連打でスリップ気味のダウンを奪った。さらに、9回には左フックをかわした相手がしゃがんだところにタイミングよく左フックを合わせて2度目のダウン。
MGMグランドガーデンアリーナは歓声に包まれた。六本木のスポーツバーも、そして、フィリピンも。
しかし、チャンスと見るや相手を追い詰め、連打で倒しきる往年の姿はなかった。パッキャオは、明らかにかつての爆発力を欠いていた。最終ラウンドは、逆転を狙うブラッドリーの攻撃をかわすシーンが目立った。
大差の判定での勝利。英雄の強さと衰えを、同時に感じさせる戦いだった。
試合後、インタビュアーから「まだ戦えるのでは」と問われたパッキャオは、きっぱりと言った。「体力的にはまだやれます。だけど、ここでやめます」
沢木耕太郎さんの短編集にあるフレーズが頭に浮かんだ。40歳のジョージ・フォアマンの復帰戦を見に来た沢木さんがモハメド・アリを見つけ、フォアマンはカムバックできるかと問うた。その返事は「Too old(老いすぎている)」だった。
その言葉は、私にはとりわけ無惨な響きを持って聞こえてきた。この人は、この人たちは、40歳ですでに「老いすぎた」と言われなければならない世界を生きてきたし、生きているのだ……。(沢木耕太郎「老いすぎて」)
6階級を制した怪物にも、老いは平等に訪れる。
21年のキャリアで積み上げてきた戦績は、66戦58勝(38KO)6敗2分。英雄は最後も笑顔でファンに手を振り、リングを降りた。
訂正
ティモシー・ブラッドリーは前WBOインターナショナル・ウェルター級王者ではなく、WBOウェルター級王者の誤りでした。訂正いたします。