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どんな人の命も嘆くに値する。それでも、社会に蔓延する不平等な共感が私たちをむしばんでいる。

同じ悲劇の被害者でも注目を集めたり、資源を与えられたり、不平等が発生するのは何故だろうか。共感の限界を模索する。

私の故郷ニューオーリンズでは、死の嘆きは公共の見世物である。いくぶん逆説的ではあるが、祝賀を伴う。死後に音楽と踊りで敬慕されるため、死者はそれほど嘆き悲しまれない。葬列は礼拝が終わると、死者が最終的に眠る場所へとブラスバンドに導かれながらソウルトレインの列へと変わっていく。トランペットが死者への敬意の念を込めて高々と鳴り響き、嘆きとはどうあるべきかという概念にはお構いなしで、人びとの合間をぬうように進んでいく棺の中に横たわる死者の人生を思い、身体を揺らして、叫び、歌い、笑うよう、活気ある管楽器の音が周りにいる人みんなを誘う。耳に心地よいバンドの音に誘われて、人びとは家から外へと次々と出てきて、手を叩き、タップを踏むコーラスに加わり、見知らぬ死者が来世へと踊りながら旅立っていくのを見送る。

ニューオーリンズは、哀悼にはさまざまな形があることを私に教えてくれた。私の生まれ故郷では、嘆きには活気がある。そして派手だ。道を行く歌と踊りの行進は、ひとつひとつの命が認められる価値があることを示すものだ。感謝を表すパフォーマンスであり、死者は私たちにとって大切な人であり、敬意を払うべき人だという表明である。もしかしたら読み書きを最初に教えてくれた先生かもしれない。あるいは、いつも新鮮なエビを仕入れてくれて、買い物に行くたびに、今日は調子はどうだい? と母に声をかけてくれた店の人かもしれない。この行列は、命を祝うのに著名人である必要はなく、自分たちの人生に大きな影響を与えてくれるのは、あまり著名ではない人だ、ということを、私たちに思い出させてくれる。

私の故郷が死者への哀悼について教えてくれたのは、このことである。でも2017年、嘆きには別の面があることを私に思い出させることがあった。死者を悼む方法はさまざまあるが、誰のために嘆き悲しむのかについては一貫性がないことがある。

ニューオーリンズがアメリカで殺人の首都だったときに、私は育った。街を出て行く資源も機会も奪われた過度に隔離されたコミュニティで殺された黒人の画像が、毎晩ニュースで流れていた。死んだのは自分のせいだ、と死者が責められるのを見てきた。死を曇らせる無関心を目撃した。肌の色がもっと白かったり、もっと裕福だったりする人びとに対する犯罪が、違う種類の怒りをもって扱われると思わずにはいられなかった。街の黒人が決して与えられることがない注目を集める死だ。地元のニュースでは、若い黒人男性の死を、まるで運命で死ぬことが決まっていたかのように報道していた。いつものことだと。警察も若い黒人男性を攻撃し、死んだにしても驚くほど不釣り合いな比率で未解決で放置される。いまでも状況は変わらない

子ども心にも、被害者によっては注目や資源の与えられ方が異なることに気づいたとき、とてつもなく混乱した。まだこのときは、「不当」という言葉を知らずにいた。共感にふたつの基準があることは今では分かるようになったが、2017年に起こった出来事を振り返って、この共感のダブルスタンダードは、さらに有害だった。


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2017年10月、ソマリアの首都モガディシオで、爆発物を積んだトラックが爆発するテロが起き、350名以上の人が死亡した。瓦礫の下から次々と遺体が見つかり、死亡者数は日を追うごとに増えていった。その後のエジプトで起きたテロでは、300名を超える人が亡くなった。1か月と間をあけずに発生したいずれのテロも、近年発生したテロでは1、2を争う規模である。このふたつのテロで明らかになり、落ち着かないことは、被害者の人種や宗教、国籍が、その人たちの死に対する私たちの集団的な反応をどのように形づくるかを証明していることだ。

ビッグベンの近くで300名の死者が出たら、アメリカ人の大部分は、どのくらいの時間、失われた命を嘆き悲しむだろうか。シャンゼリゼ通りで買い物中に、多くの人が命を落としたとしたら、被害者の名前を列挙するのに、どのくらいの時間を私たちは費やすだろうか。爆弾が積まれたトラックがタイムズスクエアで爆発していたら、カブールの市場での襲撃で亡くなる人の命よりも、嘆き悲しむ価値があるのだろうか。

いたるところで、私たちはすでにこの答えを目にしている。ソマリアとエジプトのテロの前に、2017年最大のテロは、アフガニスタン、リビア、シリアで起きている。戦争で荒廃した、地政学的な紛争がはびこっていると、西洋諸国の人が考えている国々だ。一部の人にとって、これらの場所で起きている暴力の報道は、数多く起きている一連の事件のうちのもうひとつの悲劇的な出来事に過ぎない。ひどい事件かもしれない。でも恐らく避けられないもので、恐らくこれが通常なのだろう。(まるで、恐ろしい暴力行為が本当に通常のことでありえるかのように。)

アメリカにいる人の多くは、モガディシオ(ソマリア)やカブール(アフガニスタン)、ラホール(パキスタン)ではなく、パリ、ロンドン、ブリュッセルを訪れることが多い。そのため、パリやロンドンで起きる攻撃の被害者に、自分たちや家族がなることが想像できるのかもしれない。アメリカのテレビ報道やネット上の話題、ハッシュタグでたくさんの人に注目される残虐行為が、中東やアフリカで起きているものではない理由のひとつは、これである。注目されるのは、ほとんどがヨーロッパの事件だ。

この現象は、人による暴力であろうと自然災害であろうと、なんの目新しいものではない。1986年に行われた調査では、ジョージ・ワシントン大学教授であるウィリアム・アダムスは、1972年1月から1985年6月の間に発生し、300名以上の死者が出た35件の自然災害のニュース報道を調べた。そこで、災害の悲惨さが主要テレビ局で取り上げられる規模を予測するものではない、ということに気づいた。例えば、グアテマラで4,000名が死亡した地震は、同じ年に約1,000名の死者が出たイタリアの地震と比較して、3分の1しか報道されなかった。死者の数に反して、関係していることは、アメリカの観光客がその土地を訪れる可能性と、その被災国とアメリカとの緊密性であることが調査では分かった。

今日では、ヨーロッパ以外のテロ攻撃を多くの報道機関は積極的に報道し、被害者の特集をしている。だが、西洋諸国の国境の向こう側で起きる悲劇に関しては、一般の人が大規模に抗議することが少ないことが多い。悲劇にあった人が、私たちが自ら作った壁の反対側の風刺画にとどまるとき、その人たちの命は抽象的になる。西洋人は、その被害者の身を自分自身と重ね合わせてみないかもしれない。

すべての場所で起きるひとつひとつの暴力行為に目を向けろとか、向けられると言っているわけではない。だが、いかに速くその物語をスクロールして飛ばしてしまっているか、他のチャンネルに切り替えてしまっているかは、留意すべきだ。


この選択的な共感は、海外だけではなく、国内での事件にも当てはまる。ハリケーン・マリアが直撃して1か月以上が経ち、水道が復旧していない人は100万人、電力が回復していない人は300人に上っていた。プエルトリコに対する連邦政府の対応だが(いや、対応のなさかも知れないが)、島の住民の肌の色が茶色でなかったら、スペイン語ではなく英語を話していたら、同じだったとは想像しにくい。

10年以上前、ハリケーン・カトリーナのときに、このような無関心がアメリカ国内でも見られることが明らかになった。この災害では、2,000名近くの死者が出て、多くの人が市が提供したシェルターで、食べもの、水、医療措置もないままにされた。当時、私は被災地に住んでいて、男性、女性、子どもが屋根に登り、自分たちの人間らしさを無視しているように感じる国に対して、助けを乞うているのを見ていたことを今でも覚えている。ほとんどの住民が白人のアメリカの町が、このような扱いの対象になり、プエルトリコの災害でそうであったように、長期にわたり支援されない状況に陥ることは想像しがたいことに気づく。

この条件つき共感は、今現在巻き起こっている全米における性暴力、セクハラに関する転換期にも影響を及ぼしている。#MeTooキャンペーンを通じて、社会的地位や、職業上の権力を持っている人から性的な被害を受けたことがある人びとが、勇気を出して経験談を公にしている。だが、ここでも矛盾が生じている。セクハラや性的被害を訴えた人の殆どが白人女性で、ハーヴェイ・ワインスタインのような人物が業界から追放さた。だが、その一方で25年間にわたり若い黒人女性や少女を強要し、操り、餌食にしていた訴えられているR・ケリーは、同じように大規模に糾弾されてはいない、と黒人女性の多くは指摘している。その間、ケリーは1億枚以上のレコードを売り上げたと推測され、現在でも全国でコンサートを率いている。

この共感の差は、黒人の少女や女性を社会がどう見ているのかにもよる。このような現象は、黒人少女の「早熟化」を示す実証実験の結果と切り離すのは不可能である。この実験では、黒人の少女は、早いと5歳の時点で白人の少女よりも無邪気ではなく、もっと大人びているらしいことが示された。黒人少女は、共感される価値が少ないと思われており、この認識が、黒人少女の身に起きる経験で受容できるもの、受容できないもの、といった私たちの感じ方を形づくっている。

多くの場合、このようなダブル・スタンダードの指摘は明らかに見えるが、あまりにもあからさまで、目の当たりにすると心を乱される。2017年、私たちは自分たちの醜い部分をたくさん目にした。だから、ニュースをつけるだけで、大仕事に思えた。このような共感の差があることを認めるか、認めないかは、私たち次第である。

共感とは、その苦痛との距離であったり、自身が遭遇する可能性の高さだったりで、左右されるべきではない。むしろ、苦痛がそもそも生じているという軽侮の念から生じるべきだ。もし自分と似た人、同郷の人、同じ信条の人にしか共感できないのであれば、共感とは何かを誤解している。もしそうなのであれば、ある苦痛は不運だが仕方がなく、別の苦痛は明らかに悲劇と受け入れる罠に落ちてしまいがちだ。

あまりにも多くのことが手に余っているように感じる。だが、コントロールできるものがある。目にするものにどう反応するかは、コントロールできる。ソマリアやエジプトにいる犠牲者ひとりひとりには名前があり、家族がいて、愛する人がいるということを思い出すことができる。文学や詩が好きな子どももいれば、子どもが寝るときに子守歌を唄う母親もいた。国をよりよくしたいと夢見ていた子もいただろう。プエルトリコの人たちは米国民で、その地位に基づき助ける価値があるどうかに疑問を持つことの意味に葛藤を覚える。性的被害の傷跡は被害者に一生涯残り、精神的にも身体的にも犠牲を強いる。このような途方もない悲劇に直面すると、私たちは人間的な部分を見失いがちだ。でも、このような細かいことを考えることは、どんな命も嘆くに値することを、私たちに思い出させてくれる。特定の場所から来ている人ではなく、単に人だからという理由で価値があるのだ。

この記事は英語から翻訳されました。翻訳:五十川勇気 / 編集:BuzzFeed Japan

BuzzFeed JapanNews
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Clint Smith is a writer and a Ph.D. candidate at Harvard University whose work has appeared in publications including The New Yorker, The Atlantic, and The New Republic. He is the author of the poetry collection Counting Descent.

Clint Smithに連絡する メールアドレス:cwardsmith@gmail.com.

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