白人モデルの芸者姿が物議 米VOGUEにみる根深い問題

    アジア人モデルが「芸者」だったとしても、問題は避けられなかった

    芸者のような格好で米VOGUEに登場したモデルのカーリー・クロスが、Twitterで批判を浴び、謝罪した。今回の一件は、「芸者」から欧米人が連想する従順なアジア女性のステレオタイプを、米VOGUEという世界的ファッション誌が編集に利用したため起きたことで、そこには一人のモデルのレベルを超えた、ファッション業界の根深い問題がある。

    白人モデルのカーリーは「神隠し」と題された6ページにわたる写真特集に、芸者風のスタイリングで登場。力士の隣に立ったり、手水場で手を洗ったりしている。

    カーリーの写真を強く非難する人たちは、ハリウッドを賑わせる白人化(whitewashing)の現象を引き合いに出す。「Aloha」「ゴースト・イン・ザ・シェル」「ドクター・ストレンジ」などの映画で、エマ・ストーン、スカーレット・ヨハンソン、ティルダ・スウィンドンら白人女優がアジア人の役を演じているのがその例だ。Twitterでは、カーリーが芸者に扮するのは、この白人化現象をと同じだと指摘する声が上がった。

    問題の写真が掲載された米VOGUE3月号は、人種と文化の多様性にフォーカスした「ダイバーシティー(多様性)特集」号だった。そのような特集に、白人モデルがアジア人のようなメイクをして登場することに違和感を感じた人は多かったようだ。カーリーがこの撮影の仕事を獲得した陰で、何人の日本人モデルが見送られたのか、という声もあった

    筆者は、このような意見は的外れだと思う。もし日本人モデルがカーリーの代わりに出演していたなら、日本人が自ら、日本文化を傷つける形になっていただろう。芸者は芸事で客をもてなす伝統的な職業だ。一方で、その艶かしく従順なイメージは、アジア系女性に対するステレオタイプと結びついてきた。

    今回のVOGUEの問題は、カーリー個人よりも、欧米人の持つ「芸者」のイメージそのものにある。他者を、異質な存在として、エキゾチックな物語の中にだけ閉じ込めようとする、欲望こそが問題なのだ。


    アメリカのポップカルチャーに登場するアジア人は多くない。19世紀の政治漫画やプロパガンダには、出っ歯の「中国人」の似顔絵が登場する。黄色人種が脅威になるという黄禍論(日清戦争に日本が勝利した後、欧米に広まった)が浸透した19世紀半ば以降、人種差別的な文学が普及した。東アジア人が仕事を取り、言葉や習慣、伝統を、アメリカに氾濫させる。そのような恐怖への直接的な反応だった。

    長い間、白人作家が生み出し、白人俳優によって演じられてきたアジア人像こそが、アメリカの映画や文学の中のアジア人の姿だった。

    その頃から100年経っても、芸者ガールのステレオタイプは生き延びている。1898年の短編小説「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」は、演劇や映画、オペラにもなり、アメリカ人の間に、芸者のイメージを定着させた。従順な芸者である蝶々さんは、アメリカ人の夫が日本に戻るのを待ち続ける(結局、夫は帰って来ず、蝶々さんは恥の意識のため、自殺する)。

    アメリカにおけるアジア人女性のステレオタイプには2種類ある。一つが美しく勝気で、お金目当てで男性に近づく「ドラゴン・レディ」。もう一つが、おとなしいけれど色っぽい「芸者」だ。芸者ガールはアメリカのポップカルチャーにあまりにも長く存在してきたため、その存在は当たり前のものになった。

    白人が黒人の格好をして登場する「ミンストレル・ショー」は、今では恥ずべき歴史とされている。不快感を与えるアジア人のものまねも、「ミンストレル・ショー」と同じ嫌悪感によって、拒絶されてもいい。娯楽やファッション、エキゾチズムのためだけの底の浅い模倣は、人種的ステレオタイプを安易に拡散してしまう。

    ファッション業界においては、白い肌のモデルがココア色の肌色のメイクをするのはよくあることだ。雑誌にそのようなメイクをしたモデルが登場するのは、編集方針によってそうしたからだ。

    カーリー・クロスにとって、今回のような問題は、初めてではない。2012年、カーリーはランジェリーブランド、ヴィクトリアズ・シークレットのショーで、ネイティブ・アメリカン風の羽根飾りを頭につけて歩いた。この時も批判を受けたカーリーは、Twitterで今回と同じ文言を使い謝罪している。

    カーリーは現在、世界で3番目に収入の多いモデルとされている。2016年には1000万ドル(約10億円)を稼いだ。今の彼女の立場なら、仕事は選べるはずで、なぜこのような批判を浴びてしまう仕事を選び続けてしまうのか、彼女自身、検証してもいいかもしれない。また、カーリーは現在、米トランプ大統領の娘、イヴァンカの夫で大統領上級顧問のジャレド・クシュナーの弟、ジョシュアと付き合っている。彼女は今、自分の行動が与える政治的影響を無視できない立場にある。


    米VOGUE3月号の表紙にカーリーは登場していない。しかし、リウ・ウェンが、グループ・フォトの一人としてだが、米VOGUEの表紙を飾る初の中国人モデルとして登場している。

    これまでにも米VOGUEは、アジア人モデルの写真を誌面上で掲載してきている。しかし、その際は大概、エキゾチックな容貌の方にフォーカスすることの方が多かった。

    米VOGUEは2010年12月号で、リウ・ウェンと、ジバンシーやオスカー・デ・ら・レンタなどの伝統あるブランドで活躍する、7人の日本人や韓国人をフィーチャーした特集も組んだ。オートクチュールのガウンを着て、マリー・アントワネットが登場しそうな豪華のセットでポーズする彼女たちは全員、白いおしろいと赤いリップ、そして、お揃いの黒いモヒカンのかつらをかぶっていた。写真特集のタイトルは「伝統美の再定義」。言い換えるなら、アジア人の美は、 イレギュラーで、通常と違った新しさがある場合にのみ、取り上げられるということなのだ。

    では、本当の多様性とはどんなものだろうか。アジア人が芸者の格好をすれば良いというわけではない。

    米VOGUEの巻頭の記事にある言葉のアプローチの方には、ファッションの民主化を呼びかける言葉が描かれている。「移民の入国制限や国境の壁のことが話題にのぼる今、アメリカの女性像は様々だ。そもそも、アメリカの女性が、一つのイメージに収まったことは、これまでない」

    もし、一つのアメリカ女性のイメージが存在しなのなら、人種に言及しないファッションフォトの中に、有色人種のモデルが登場していてもおかしくないはずだ。大胆なニットを着たアジア系のモデル、リゾートウェアを着た黒人モデル。他の白人モデルと同じ立場で。でも、それは、有色人種のモデルがファッション誌に普通に登場するようになったのなら、という話だ。

    今後のファッション業界が、より正直で多様な美の姿を反映していくのではと、希望を感じさせる出来事もある。フランス版VOGUE3月号の表紙には、トランスジェンダーのモデル、ヴァレンティナ・サンパイオが登場する。スモーキーなアイメイクと、金色のラメの衣装に身を包んだ彼女の姿は、ナタリア・ヴォディアノヴァやカーリー・クロスが、全く同じ格好をして登場している様子を容易に想像できる。トランスジェンダーのモデルたちが「ファッションの『顔』を変貌させ、偏見を打ち壊している」とフランス版VOGUEは綴った

    実は、カーリー・クロスの芸者の写真の何ページか向こうに、すでに米VOGUE自身の言葉で、答えは書かれていた。「新しい美の基準は、基準がないことだ……どんなあり方も歓迎されている」



    この記事は英語から翻訳・編集された抄訳です。