日系米国人の強制収容所を訪ねて考えたこと【前編】

    米大統領選挙後、ニューヨークのアジア系アメリカ人ライターである筆者は、二つの日系人強制収容所を訪れた。そして、過去が今、現代によみがえろうとしていることに気付いた。前後編の前編。後編はこちら

    日系米国人の強制収容所だったマンザナーは、米国西部の人里離れた場所にある。1942年に戦時移住局(WRA)が建設した強制収容所10カ所のほとんどは、この地域に点在する。

    マンザナーがあるカリフォルニア州の不毛地帯オーエンズ・バレーは、マンモス・マウンテンにスキーに行くときや、ジョン・ミューア・ウィルダネスにハイキングに行くときの通り道だ。南北戦争の真っただ中にあった1860年代、米陸軍がこの地からパイユート族を追い出した。その後、白人の入植者たちがリンゴ園をつくったが、成長を続けるロサンゼルスの需要によって、入植者たちは貴重な水を奪われた。マンザナーから最も近い、インディペンデンスという皮肉な名前がついた町には、今でも700人近くが住んでいる。

    2016年11月末、筆者はマンザナーを訪れた。ロサンゼルスから車の少ないハイウェイに入り、320キロ余りの距離を北上。モハベ砂漠を蛇行しつつ進み、荒涼としたシエラネバダ山脈に突入した。私はもともと、南カリフォルニアからテキサス州を目指すつもりだった。

    しかし、リトル・トーキョーを通り掛かったとき、近くも遠くもない距離にマンザナーがあることを突然思い出した。リトル・トーキョーは、第2次世界大戦中に空っぽになった町だ。強制収容所の跡地を見に行き、非宗教的な巡礼をしたいという考えが、頭から離れなくなった。その夜、インターネットで少し検索した後、私は衝動的にマンザナー行きを決断した。別の強制収容所があったアリゾナ州ポストンにも立ち寄ることにした。

    この決断にはもう1つの理由がある。ドナルド・トランプだ。米大統領選挙の期間中、日系米国人の強制収容は注目を集めた。トランプがイスラム教徒の入国を禁止すると訴えるたびに、日系米国人の強制収容という亡霊がよみがえった。2015年12月、「Time」誌のインタビューで、強制収容を認めるのかと尋ねられたトランプは、「もちろん、強制収容という概念は嫌いだ。しかし、適切な答えを出すためには、当時の実際の状況を体験しなければならない」と述べた。

    また、トランプはイスラム教徒の入国禁止と登録を提案したとき、フランクリン・ルーズベルト米大統領も「同じこと」をしたと主張した。トランプが大統領選挙に勝利した今、単なる大言壮語と思われていた言葉が、限りなく現実に近付こうとしている。そして、トランプの支持者たちはすでに、イスラム教徒は登録すべきだという意見を正当化するため、集団的な強制収容という先例を引き合いに出している。過去が現代によみがえろうとしているのだ。

    ほかにも、私がマンザナーに行かなければならないと思った理由がある。私は大人になってから強制収容についての文献を読み、大学時代にその歴史を学んだ。ドロシア・ラングやアンセル・アダムスのドキュメンタリー写真も見たが、実際に足を運んだことは1度もない。

    ある意味、私は強制収容を抽象的にしか理解していないということだ。私の心にある異議や恐怖すら、抽象的に感じられた。強制収容所に送られた何万人もの日系人はしばしば、忠誠心ある米国人だったと伝えられている。収監後も自ら米国のために戦い、愛国心を証明してみせた。作家のジェームズ・ミッチェナーによれば、その「冷静な勇敢さ」と「威厳」は、「すべての者を謙虚にさせる」ほどだったという。こうした紛れもない忠誠心は数十年後、ロナルド・レーガン大統領が強制収容は「間違い」だったと認めるという形で証明された。

    ただし、忠誠心に注目することは同時に、ほかの事実を単純化し、見えないものにしている。作家のローレット・サボイが言う「記憶の風景」の中に立ったら、いったい何が見えるのだろう? 土地には力がある。刑務所が人里離れた場所にあるのもそのためだろう。目に付かなければ、忘れたふりができる。記念館が重要視されるのも、そこで何が起きたかを伝えるためだ。

    私たちは思い出さなければならない。私は選挙の後、自分が麻痺したように感じていた。ささやかかもしれないが、マンザナーとポストンに行くことは、一種の抵抗のように思われたのだ。

    現在のマンザナーは、米国立公園局が管理する史跡となっている。解説責任者を務めるアリサ・リンチは、この史跡の目的は「市民的自由や公民権がいかにもろいかを理解してもらうことと、この歴史に耐えた人々を、仲間としての人間、仲間としての米国人として意識してもらう」ことだと話す。

    リンチによれば、2016年は例年より来場者が多かったという。その理由は、「世界で起きているほかの事柄と関連性がある」とリンチは述べる(もう1つ、ガソリン価格が下落していることも関係しているかもしれないともリンチは指摘した)。

    しかし、強制収容について思い出すという私たちの選択は、現在についての私たちの考えに、どのような影響を及ぼすのだろう? 結局、米国には「私たち」という集合体は存在しない。それどころか、過去についての共通認識すら存在しない。


    「完全に正当な行為だった!」

    マンザナーでゲストブックを開くと、黒のインクで殴り書きされた1文が目に飛び込んできた。私は泣き腫らした目でこの言葉を読んだ。少し前、ガラスケースに収められたシンプルな木製の化粧台を見たとき、突然、涙があふれ出したのだ。公衆の面前で泣きじゃくったため、見知らぬ人々から大丈夫かと声を掛けられた。

    説明書きによれば、この化粧台は果物の木箱からつくられたもので、ほとんどの日系人は家具を持たずここにやって来たという。限られた材料から、化粧台や椅子、テーブルといった必需品を手づくりしたのだ。

    その1時間前、私は高校の講堂だった場所にいた。この大きな建物は2004年から展示ホールとして利用されている。一つ一つの展示がまるで、巧みに計算されたボディーブローのようだった。ホールに入ってすぐ目に付く場所に、当時の白黒写真を引き伸ばしたものが飾られていた。写真の横断幕には次のような言葉が書かれている。

    「ジャップがうろついている。ここは白人の住む場所だ」

    その後、私は墓地に行った。生まれたばかりの赤ん坊や老人の遺体が、一緒に埋葬されている。有刺鉄線と監視塔に囲まれたこの場所で死ぬことを運命付けられていた人々だ。

    墓石は風雨にさらされ、文字を読むことはできないが、名もなき人々がつくった折り鶴が供えられていた。背後には、雄大なシエラネバダ山脈が壁のようにそびえ立つ。私は、ゲストブックにあの言葉を書き込んだ匿名の人物のことを思い出していた(ゲストブックに匿名で書き込むという行為は、インターネットでの挑発行為を思い起こさせた)。

    私が目にしたものと全く同じ風景を、人々も見たのだろう。約2.5平方キロの荒野に囲まれた殺風景な土地に、1万人が詰め込まれた。日系人たちが育てた果樹が、ヤマヨモギとともに、今も花を咲かせている。3年間だけオーエンズ・バレー最大の町となったこの場所は、監獄だった。点在する宿舎は簡素な造りだったため、人々は毎朝、目覚めると、砂埃にまみれていたという。うわべだけでも普通の生活を送りたいと願う人々がつくったロックガーデンの跡地もある。

    ビジターセンターに入ると、2つの問いについて考えることになる。マンザナーは歴史にとってどういう意味を持っているのかという問いと、自分にとってどういう意味を持つかという問いだ。そして、すべてを見た上で、「完全に正当な行為だった!」という答えを出した人もいた。彼らはここに暮らした人々を、「仲間としての人間、仲間としての米国人」とは思えなかったようだ。

    一方、何の関心もない人々もいる。この日の朝、ホテルで朝食をとっていたとき、それを確信した。おしゃべり好きの接客係が私に、なぜこの町に来たのかと尋ねた。マンザナーに行くためだと答えると、ケイト・ゴセリンのような金髪で、少し鼻にかかった声を持つ女性が、近くのテーブルから話に参加してきた。「マンザナーって何?」と女性は質問した。

    接客係が簡単に説明すると、女性は大声で「それは知らなかったわ!」と言った。女性はちょっと黙ってから話題を変えた。この旅行中に夫婦で訪れた墓地の話だ。「1903年に亡くなった女性の墓なのよ!」。その声は好奇心と驚きに満ちていた。(後編に続く)


    (この記事は英語から翻訳されました。翻訳:米井香織、合原弘子/ガリレオ、編集:中野満美子/BuzzFeed Japan)