見えない貧困、アーバンプア 飢えていても成功を装うミレ二アル世代

    本物の飢えがいたるところに存在するインドで、ライフスタイルの選択によって生まれる「貧困」がある。

    ムンバイのサンタクルーズ・ウエストには、地下のダンスバーがある。私はそのバーで、かつて全国レベルの美人コンテストに出場していた女性が踊る姿を見た。私をそこに連れて行ってくれた人の話では、その女性がそこで働き始めたのは、ボリウッド映画に出演するチャンスを求めていたときのことだった。役を勝ちとるには、レッドカーペットやパーティーの席で人目につかなければならず、そのためにはヒールとドレスが必要だった。役者の仕事が相次いで駄目になる一方で、蓋を開けてみればダンサーの仕事は実入りがよく、いつしかこれが彼女の本職になったという。

    初任給でクルマを買い、いまはそのなかで寝起きしている若手マーケティング幹部の女性も知っている。家賃とローン返済の両方は苦しく、彼女はひもじい思いをするようになってしまった。彼女がどこにクルマを停めているのかは言わないが、幸いにもムンバイはまだ安全だ。

    後輩のジャーナリストもだ。一時期、彼女はあまり職場に顔を見せなくなった。おまけにどんどんやせ細っていったが、それは毎晩ジョギングしているからだと言い張った。そして彼女は、ランチタイムになると姿を消したり、冷めたコーヒーを一日中チビチビ飲んだりするようになった。私はピンときた(私がそのサインを見逃さなかったのは、自分にも同じような経験があったからだ)。

    私は彼女にメッセージングアプリで連絡した。まわりに気づかれないようにするには、それ以外に方法はなかった。

    「食事代はあるの?」

    彼女は、ない、と答えた。

    彼女の話では、余裕があるときには、夕方になってからベーカリーレストランに行き、200ルピー(約340円)でサンドウィッチを1個買うのだという。午後6時を過ぎると売れ残りが値引きされるからだ。

    社員食堂では一日中食事が提供されていた。ここなら彼女の懐事情でも大丈夫なはずだった。だが彼女にとっては、食べることは「体裁を保つこと」よりも優先順位が低かった。つまり、ベーカリーで食事ができるという体裁が、彼女には大切だったのだ。


    これが「アーバンプア」の実態だ。客観的に見て、あるいは圧倒的多数のインド人と比べれば、これは「貧困」ではない。しかし、彼らは確かに空腹で、一文無しだ。大都市圏に住むこうした20代の若者たちは、自分たちを取り巻くプレッシャーを内に秘め、給料の大半を「トレンディーなライフスタイル」や体面を保つのに費やしている。そうしたライフスタイルや体面が、高い給料を稼ぐのに不可欠だと彼らは信じているのだ。

    かさむ一方の出費だが、そのどれも削ることはできないと彼らは考えている。服や化粧。バーに繰り出す夜、オフィスでのディナー。午前1時までネットワークづくりに励んでいるため、配車サービスの「Ola」や「Uber」を利用するほかない。スターバックスのコーヒーも買わなければならない。仕事の面接がそこで行われるからだ。そして、パーティーのためのヒールとドレス。

    その月の給料日までに預金残高がマイナスになると、さすがの彼らも金勘定のまずさを認めるが、最終的には何とかなるだろうと希望にしがみつく。給料が上がったら、昇進したら、父親が少し余分に仕送りしてくれたら、といった希望だ。

    彼らが何から影響を受けているのか察しをつけるのは難しくない。彼らが耳にするスタートアップのサクセスストーリーでは、ベンチャーキャピタルから調達した資金を使って起業家たちが富を築く。持っていた金をたちまちのうちに100倍にするのだ。彼らが気にするのは、インド最大規模の複合企業「リライアンス・インダストリーズ」の後継者となって大豪邸を建てたムケシュ・アンバニの物語であり、質素な家に住んで事業を起こした父ディルバイ・アンバニの物語ではない。あるいは、髪を完璧に染めるのに500万ルピー(約848万円)をかけるという女優、カトリーナ・カイフの記事を読む。「お金を稼ぐにはたくさん出費しなければならない」という教訓が刷り込まれていくのだ。

    一流大学に入るためなら、私たちは教育費を惜しまない。良い職に就くために、GMAT(ビジネススクールの入学適性テスト)やMBAに貯金を投げ打つ。昇進をめざして、スーツや酒席に金を投じる。


    私たちは、自分が望む仕事に就くために自分を着飾る。給料というものはおおむね、自分のいまの仕事に適した服を買えるようにあつらえられているということを忘れて。

    どの新聞やメディアも、成功するには何を食べどんな身なりをすべきかについて取り上げている。どこで休暇を過ごすべきか、どんな香水をつけるべきか、どんなクルマに乗るべきかについてもそうだ。だが、これらの費用をどうやって捻出するのかについては教えてくれない。

    そのようにして、インドの一般の人たちが食べるロティ(無発酵パンの一種)やサブジ(野菜の蒸し煮)には見向きもせず、ハンバーガーやコーラのトレンディーさを求める20代の若者が大量生産された。さらにそこから彼らは、同じく向こう見ずに、チーズとシャンパンというもっと高級な世界をめざして全力疾走する。

    15年前私がはじめて家を出て独立したとき、私の月給は1万ルピー(当時のレートで約2万6000円)だった。家賃は4000ルピーで、託児所の料金も4000ルピーだった。残りの2000ルピーは通勤費と電気代にあてた。食費はクレジットカードでまかなった。私は25歳、息子は1歳だったので、ときどきはアイスクリームや映画などの娯楽も必要だった。これらの支払いもクレジットカードで行った。もっと給料の良い仕事に移ったころには、私のクレジットカードは借金の支払いで限度額に達していた。私は、自分が稼ごうとしているお金を、すでにすべて使い切っていたのだ。

    すぐに私は、給料が上がるたびに、それを稼ぐための代償も大きくなるということを知った。最初の職場での私は、トップス3枚とジーンズ1本のローテーションでその場を切り抜けてきたが、上級職に就くにしたがって、もっと良い服を着る必要が生じてきた。私は「大人になること」を求められたのだ。ランチやハッピーアワー、高級なコーヒーショップでのミーティングが私の予定に組み込まれるようになった。

    若い社会人を破産に追い込みかねないこうした状況に、私は必死で抵抗を試みた。誰かと外食を約束する前に、いくらかかるのかを頭のなかで計算した。そしてビールを1杯だけ注文し、一晩かけて大事に飲んだ。

    いまの私は、どんな席であっても、破産しかけている人にすぐ気づく。前菜に手をつけない菜食主義者や、水しか飲まない禁酒家、すでに夕食を済ませてきたふりをする若手スタッフ。そしてお開きのとき、誰かが軽い口調で割り勘を提案すると、彼らの顔には失望の色が浮かぶ。


    私も同じ経験をしてきた。でも、ノーとは言えないのだ。泣きそうになってしまうからでなく、ケチくさく見えてしまうのが嫌だから。だから、わざと手をつけなかった飲み物や前菜の料金を支払う財布の余裕があろうとなかろうと、愚痴ひとつこぼさずにお金を出す。

    そのあと、コインを数える。ソファーの隙間に挟まっていた1ルピー硬貨を引っ張り出す。そして、みんなが見えなくなるのを待って、バスで家路につく。

    いま、そんな年下の同僚を見かけたときには、声をかけることにしている。「食事はしたの?」「コーヒーを一杯おごらせてもらえる?」「家まで歩くの?」「クルマに乗っていく?」。そんなとき彼らは、気丈さを保って私の申し出を断ることもあれば、表向きの顔を崩してうなずくこともある。

    彼らの親たちは、子供たちの幸福と自由を得るためならいくら出費しても多すぎることはないという態度を子供たちに教えた。家計についておおっぴらに話し合わないという新時代的なあり方も支持していた。父親が電話で彼らに「もっとお金を送ろうか」と尋ねると、「大丈夫、すべてうまくいっているよ」と彼らは答える。「食事はきちんととっているし、職場も申し分ないよ」と。子どもの快適さのためにすべてを犠牲にしてきた親たちに育てられた世代はいま、皮肉にも、「不快さ」をひそかに学んでいるのだ。

    こうした状況に耐える人々は、「強い」と呼ばれるだろう。だが、この「強さ」は物言わぬ飢えであり、声を押し殺したすすり泣きだ。自分はそうした時期とは決別したのだという思いが、毎日のように私の頭をよぎる。

    先日、私はインタビューの席にいた。すると相手が私の質問を遮って、こう言った。「私の運転手のほうがあなたよりも良い電話を使っていますよ」。彼女は笑った。「iPhoneに変えるべきですよ、絶対!」

    私は良い服を着るようになった。家ももっているし、銀行に預金残高もある。しかしこのとき、まるでこの10年がなかったかのような勢いで、あの屈辱感が蘇ってきた。

    私はこうした「アーバンプア」について先月からツイートを始めたのだが、「自分もそうだ」という声が多数寄せられた。

    ドイツに滞在していたある男性は、家族にチョコレートのおみやげをもって帰れるように、同国で3年間トマトばかりを食べて、お金を貯めたと告白してくれた。また別の男性は、息子が海外に移住できるよう自分の大事なバングル(腕輪)を売ってくれた母親に対して、その甲斐があったことを伝えるため、長距離電話で「万事うまくいっているよ!」と伝えたと語った。

    ある男性はシングルサイズのマットレスで眠り、職場には机の下にスニーカーを隠している。毎晩、職場から家までの8kmを歩いて帰れるようにだ。

    5つ星ホテルで一杯のコーヒーを注文するために、一日中空腹を抱えているマーケティング担当の男性たちの話も聞かせてもらった。

    子どもに国際教育を受けさせる費用を捻出するために、13年間、休暇を一日もとらなかった父親。

    一日中、水で飢えを凌ぎ、ヒッチハイクでトラックに乗せてもらって交通費を節約し、大学を卒業した人。

    外食しないせいでケチ呼ばわりされた人。


    本物の飢えがいたるところに存在するインドで、ライフスタイルの選択によって生まれる「貧困」がある。どういうわけか私たちは、外見を重視するあまり、食べ物を買うために少し出費するよりも、満ち足りているように見せかけるために多く出費するほうが良いという文化を築いてしまったようだ。

    こうした空腹の経験は、人によって千差万別だ。一時的な場合もあれば、永続的な場合もある。軽い場合もあれば、深刻な場合もある。一度だけかもしれないし、何度も繰り返されるかもしれない。しかし、一度でも経験したら、その体験があなたのなかから消えることはない。そしてあなたは、ある集団の永久会員になる。それは、ある日誰かが職場に弁当をもってくるようになり、やせ始め、交通費を浮かせるためにオフィスで夜を過ごすようになると、その意味を理解できるという集団だ。たとえ短い間であれ、遠い昔であれ、こうした空腹を経験したことがある人にとって、それはいたるところで目につくものなのだ。

    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:阪本博希/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan