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「この世から消えてしまいたい」から「生きたい」へ AIDSと診断された女性を変えた出会い

20年前、革命的な新薬がHIV/AIDS治療の転換点となり、死の淵から生還した人たちがいる。 第二の人生を生きるとはどういうことなのか。3人に聞いた。第1章第2章に続く、全3章の第3章。

1996年9月、35歳の女性が、ロンドン東部のニューアム総合病院を訪れた。体はひどくやせて衰弱し、死の淵をさまよっていた。

女性の名前はウィニ・サニュー・スルーマ。

医師たちは、彼女の素性と病院にやって来た理由を質問し、検査を行った。そして、検査結果に驚いた。健康な人の場合、免疫系のCD4数は500~1600だ。しかし、サニュー・スルーマのCD4数は1しかなかった。この状況で何かの感染症になれば、命を落とすことになるだろう。医師たちはさらに質問を続けた。今までどこにいたのか、どうしてこのような状況になったのか、英国の在留資格はあるのか、といった質問だ。

サニュー・スルーマは質問に答え始めた。医師たちは病院にもう一度来るよう懇願した。入院させて、病状を監視し、新薬を投与するためだ。しかし、サニュー・スルーマは関心を示さなかった。すでに死ぬ覚悟はできていた。

それから20年。サニュー・スルーマはロンドン、ウォルサムストーで自宅のリビングルームに座っている。大きく開いた目に何度も涙を浮かべ、当時を振り返っている。低く穏やかなその声は、スモーキーという言葉がぴったりだ。廊下の壁には、モノクロの絵画が飾られている。1990年代に撮影されたサニュー・スルーマの顔写真を正確に再現した素描だ。病院を訪れたとき、どれだけやせていたのだろう。この絵からは想像できない。

サニュー・スルーマは1961年、イングランドのシェフィールドで生まれた。しかし、2歳のとき、両親の祖国ウガンダに戻ることになった。当時は7人家族だったが、今は4人しか残されていない。

19歳のとき、奨学金を得て、米国のカンザス大学に入学。1988年、インターンシップのため、東部のメリーランド州に引っ越した。そこで健康診断を受けると、HIV検査を含む精密検査が必要だと言われた。

「陽性という検査結果を伝えられたとき、HIVが陽性(ポジティブ)ということは問題ないのだろうと思った。陽性は良い、陰性は悪いという言葉だと思っていた」とサニュー・スルーマは振り返る。「ところが医師は、『HIV陽性というのは、ウイルスに感染しているという意味だ。まだ治療法も薬もない。あとどれくらい生きられるかもわからない』と言った。椅子にきちんと腰掛け、まるで関心がないような態度だった。私はぼうぜんとするしかなかった」

その瞬間、サニュー・スルーマの人生は劇的に変化した。そして彼女は、このことは誰にも言わないと固く誓った。

「当時、(HIVに関する)ニュースは厳しい言葉であふれていた」とサニュー・スルーマは話す。「ウガンダでは、HIVは広く知られていた。村中の全員が死んでしまうような病気だ。(米国では)女性の感染者は知らなかったし、何よりHIVには悪いイメージがある。だから、『黙っていよう』と心に誓った」。自分の病気についてきちんと理解し、どれだけ時間が残されているかを知ったのは、しばらく後になってからだという。

「道を歩いているときに倒れ、あっさり死ぬのだと思っていた。だから、いつ死んでもおかしくないと思いながら生きていた。友人と過ごしているときも、この人たちと会うのはこれで最後かもしれないと考えていた。道を歩いていても放心状態で、よく人にぶつかった。自分は死ぬかもしれない。死ぬとはどういうことだろう? そうした考えに支配されていた」

しかし、病院の対応は親切だった。「(ウガンダ人の)知り合いがいないときを選んで病院に行くと伝えた」。当時のウガンダでは、HIV感染者に近付くと、「魔術をかけられるとうわさされていた」。また、ウガンダではHIVの代わりに、スリム病というわかりやすい名前が使われていた。

「HIVに感染すると、体重が減り始める。誰もが知っていることだ。患者は、自らあるいは家族の意思でどこかに連れて行かれ、全く尊厳のない死を遂げる」。ウガンダでは1990年までに、大人のおよそ6人に1人がHIVに感染した。

サニュー・スルーマは病院にいるところをウガンダ人の知り合いに見られ、HIVに感染していることを家族に知られるのが怖かった。もしそうなれば、家族は崩壊してしまう。

1990年、兄弟の一人もHIVに感染していることが判明した。同じ年、母親ががんで死去した。1992年、HIVに感染していた兄弟が結核で命を落とした。翌1993年、今度は父親ががんで死去した。

病院は、サニュー・スルーマにカウンセラーを付けた。フィリップという名前で、キリスト教徒の同性愛者だった。フィリップもHIVに感染していた。自分の病気について話すことができる唯一の相手だった。

「彼と話すことができて本当に良かった」とサニュー・スルーマは静かに言う。「彼は本気で私をサポートしてくれた。でもある日、病院に行くと、新しいカウンセラーがいた。『フィリップは?』と尋ねると、『彼は死んだ』という答えが返ってきた」

サニュー・スルーマは両手で顔を覆った。まだ信じられないのだ。「『なんてことなの』と私は言った。先週までここにいたのに……」と声を絞り出す。「私は果てしない恐怖に襲われた」

1993年を迎えるころには、驚くほど体重が減り、体調も悪化していた。サニュー・スルーマは1つの決断をした。故郷のウガンダで死ぬという決断だ。それは自分のためだけではなかった。

「私が死んだら、兄弟は私の遺体を故郷に持ち帰ろうとするだろう。しかし、それはあまりに費用が掛かり過ぎる。だから、彼らの負担を減らそうと思った」。サニュー・スルーマは持っていたものをほとんど売り払い、スーツケース2つだけで米国を出た。

片方のスーツケースには、病院から渡された6カ月分の薬が入っていた。単剤療法の薬AZTなどだ。サニュー・スルーマは子供時代を過ごしたウガンダ、カジャンシーの村に戻った。6カ月を過ぎれば、もう薬はないとわかっていた。

「早く死んで、この世から消えてしまいたい」。サニュー・スルーマは「消える」という言葉と共に指を鳴らした。「生きる意味を見いだすことができなかった。ウイルスに感染し、病気を発症している。恐ろしい経過をたどり、最後には死ぬ。別の考え方などできるだろうか?」

薬が尽きると間もなく、サニュー・スルーマは結核になった。免疫機能の弱った人間に襲い掛かる病気で、兄弟の一人も犠牲になっている。ただし、そのときのサニュー・スルーマは自分の妹からサポートを受けていた。彼女にはHIV感染者の知り合いが複数いて、ウガンダの病院にも詳しかった。

サニュー・スルーマは診療所に連れて行かれ、結核の薬をもらった。しかし、結核が治ると、今度は別の日和見感染症が襲ってきた。多くのAIDS患者の命を奪っているニューモシスチス肺炎(PCP)だ。サニュー・スルーマは再び薬を処方され、PCPも撃退した。

しかし、これで終わりではなかった。今度は下痢だ。ひどい下痢が長く続いたため、今の自分はこれだけでも死んでしまうと、サニュー・スルーマは悟った。診療所の治療を含め、いろいろなことを試したが、数カ月たっても状況は変わらない。残された手段はあと1つだけ。呪術医をひいきにしているおばのアドバイスだった。

「『あの人なら治すことができる』とおばは断言したが、私は『呪術医には会わない』と言った」。おばは、呪術医というよりは「伝統的な薬草師だ」と主張したが、サニュー・スルーマは納得しなかった。呪術医も薬草師もほとんど同じだと、サニュー・スルーマは言う。彼女が恐れたのは、薬草が効かないことだけではない。薬草によって命を奪われる危険があることだった。

「治療しなければ(下痢によって)命を落とすと思った。でも、呪術医に任せれば、(薬草によって)命を落とすかもしれない。いったいどうすればいいのだろう?」

薬草への恐怖は、飲用時に関する指示によってさらに強まった。

「『服用に最も適した時間は真夜中、午前4時だ。体の中からすべて出し切り、朝になったらぐっすり眠ることができる』と薬草師は言った。私は恐ろしくなった」

勇気を振り絞って調合薬を飲むまでに2日かかった。薬草師の言う通り、体の中から何かが出てきた。「何が出てきたかわからない」とサニュー・スルーマは話す。「この目で確かめようとしなかったためだ。しかし、2日がたったころだろうか? 何も起こらなくなった」。下痢は止まり、2度と起こらなかった。「信じられなかった」とサニュー・スルーマは振り返る。

今でもどのような薬草だったかわからないが、サニュー・スルーマは後に、ウガンダ固有のいくつかの薬草は下痢に効くことが証明されていると聞いた。下痢がやんだのは偶然ではなかったのだ。下痢は収まったが、体重の減少は止まらなかった、サニュー・スルーマはもう長く生きられないと確信した。1996年前半、死へのカウントダウンが始まってから8年が経過していた。

「心が折れていた」とサニュー・スルーマは言う。「本当に折れていた。前向きに考えることができず、自分を好きになれなかった。朝、目が覚めると、まだ生きているのかと思う。そんな日々が続いた」

しかし、生まれ故郷の英国に戻っていた兄弟の一人は諦めていなかった。「彼は私に、『英国に来ることができるというのに、なぜウガンダで死ぬことを選ぶんだ?』と言った」。1996年9月、サニュー・スルーマは2週間の旅に出た。ロンドンにはチャンスがあった。

「たとえ死ぬとしても、それがいつになるのか知りたい。私の免疫系はどのような状態なのだろう」

そのとき行ったのがニューアム総合病院だ。

CD4数の検査結果が出たとき、医師は併用療法を受けるようサニュー・スルーマを説得した。

「『あなたの体は非常に深刻な状態だ。ただのHIVではない。AIDSを発症している』と医師は言った。AIDSだと言われたのはこのときが初めてだった。私は泣き崩れた」。それでも、サニュー・スルーマは治療に同意しなかった。

「死ぬことはもう決まっていた」。ゆっくりと発した言葉が部屋中に響き渡る。窓からは太陽の光が差し込んでいる。兄弟はサニュー・スルーマに、「ボディー&ソウル」という慈善団体が運営するHIVのサポートグループに行ってみるよう勧めた。

「60人くらいはいたはずだ。大部分がアフリカ系の女性で、その多くがウガンダ人だった」。1980年代以降、HIV関連のサービスや慈善事業のほとんどが同性愛者の白人男性によって運営されており、決して意図的ではないものの、主催者も同性愛者の白人男性が多かった。そこに属さない感染者たちは疎外感を覚えていた。

「私はただそこに座っていた。女性たちは自分がどれだけ深刻な状態だったかを話した。聖ラザロのようによみがえり、元気になった女性たちだ。彼女たちは信じられないような体験をしたのだ。私は一人一人の話を聞き、彼女たちのようになりたいと思った」。そう語るサニュー・スルーマの目は潤んでいる。「私はここに残ることに決めた」。サニュー・スルーマは英国にとどまり、再び病院に行った。そして、「彼女たちのようになるためなら何でもする」と医師に伝えた。

6カ月足らずで、変化が現れた。

ウイルスが抑制され、CD4数が上昇し始めると、サニュー・スルーマはきちんと食べ、眠ることができるようになった。しかし、変化したのは体だけではない。「治療を受けるうちに、考え方も変わった。私は生きたいと思うようになった」

サニュー・スルーマは身を乗り出し、力強い声で言った。「私の中で何かが目覚めた瞬間だ! 私はエネルギーに満ちていた。何もかもが……、春になり、花が満開になった感じと言えばいいだろうか? あの感じは本当に最高だった」

サニュー・スルーマはあちこちのサポートグループに顔を出し、ときにはボランティアとして働き、HIVの治療に関する講座を受け、HIVとのかかわりを強めていった。「ネットワーキング! 英国のためのネットワークづくりよ!」。サニュー・スルーマは1年以内にある男性と出会った。途切れ途切れではあるものの、2人の関係は20年がたった今も続いている。

「私は本当に生きることができたのよ!」。サニュー・スルーマは歌をうたうような調子で強調した。「これまでとは全く違う人生。私は第2の人生のように感じていた。私は死の淵からよみがえろうとしていた」

1996年以前とは全く違う人生が始まった。

「人生の楽しみ方も、人との付き合い方も」とサニュー・スルーマはかみ締めるように言う。「自分に優しくなり、物事をじっくり考えるようになり、人間関係も変わった。私は心から良い人になりたいと思った。誰かの支えになりたいと。私にとっては、とても意識的な人生だ」。サニュー・スルーマはテーブルに両手を置くと、ドラムをたたくように「人生」のビートを刻み始めた。まるで、力強く生きなければならない、人生を楽しまなければならないと、世界中の人々を鼓舞しているようだ。

現在、サニュー・スルーマは国際開発コンサルタントとして、コミュニティー単位でのHIVや健康関連プロジェクトにかかわっている。世界中のLGBTの生活向上を目指す「カレイドスコープ・トラスト」の理事も務める。しかし、もう1つ取り組んでいることがある。幸せの秘密を質問されたときだけ、こっそり明かす活動だ。

「(ウガンダの)故郷の村で始めたプロジェクトがある。不安定な環境に置かれた子供たちが学校に行く前に朝食を配るという取り組みだ」。「ブリッジング・ア・ギャップ・コミュニティー・イニシアチブ」と名付けられたこのプロジェクトは当初、44人の子供を対象としていた。地元のリーダーはサニュー・スルーマに、もしこの取り組みを始めなければ、半数の子供は命を落としていただろうと言った。現在、子供の数は150人まで増えている。

「とてもやりがいがある」とサニュー・スルーマはほほ笑む。上を向いたその目はまるで、カジャンシーの村を思い出しているようだ。「これが今の私。きちんと目的を持って生きている」

2015年、HIVやAIDSとともに生き続ける患者のグループが、1つの宣言を発表した。この病気から目を背けてきた世界の人々に対して、患者の体験に耳を傾けてほしい、まだ解決していない問題について手助けしてほしいと求める内容だ。この宣言には、バーナードやジェイムズ、サニュー・スルーマの苦闘にも通じる1文が含まれている。

「私たちは生き続けるための大胆さを持っていた」

バーナードの場合は、この大胆さは犠牲を伴うものだった。バーナードは、頭上の封印された箱について語り始めた。箱の中には、写真が詰め込まれているという。バーナードとピーターの写真だ。

「私は写真を見ることができない」とバーナードは言った。「理由は罪悪感だ。ピーターは私の世話をしてくれたのに、私は『自分にはできない』と彼を見捨てた。あれが身勝手な振る舞いをした最後の瞬間だったと思う。ピーターの世話をする以外にも、しなければならないことがあった。嫌な思い出、つまり、人生のどん底だった時期の思い出を捨て去り、新しい自分になりたいと考えてしまった」

自己防衛本能という衝動に負けてしまったと、バーナードは結論づける。

バーナードは、今回の取材の写真撮影担当のローラと一緒に階段を下り、ブライトンにある小石の浜へと向かった。浜辺では、見知らぬ母親と娘が、小さな折り畳み椅子に座っておしゃべりしている。目の前をバーナードが歩き、ローラがしゃがんで写真を撮り始めると、母子はそれをいぶかしげに眺めた。なぜ写真を撮っているのだろう? 彼のどこが面白いのだろう? そう思うのも当然だ。たくさんの人たちがHIVに感染し、適切な薬を得られないでいる。その薬がなければ、ラザロ・エフェクトを体験することはないだろう。

バーナードは立ち止まり、広大な海を見つめる。ブルーグレーの水平線の下で、何の偏見もない穏やかな波が揺らめいている。(終わり)


この記事は英語から翻訳されました。

翻訳:米井香織/ガリレオ、編集:中野満美子/BuzzFeed Japan


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Patrick Strudwick is a LGBT editor for BuzzFeed News and is based in London.

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