冷戦時代は核兵器が隣にあった。日本では目にすることが少ない驚きの画像がここに。

    エノラ・ゲイの乗組員は、ニューヨークをパレードした。

    核戦争の危機がすぐ隣にあった冷戦時代。当時のアメリカ人たちは核をどう感じていたのか。被爆国の日本に伝わることは少ない。アメリカのアーカイブから、当時を紐解いた。

    1955年、「ミス・原子力」コンテストの勝者。

    1946年4月12日、ニューヨーク市。広島に原子爆弾を落とした爆撃機「エノラ・ゲイ」の乗組員らがパレードする。

    1955年、核実験を伝えるテレビ中継。7歳の少年レイモンド・カーリンが画面をじっと見つめる。

    1960年代前半、原子力をモチーフにしたおもちゃで遊ぶ少年。

    1958年、原子力の車「ヌークレオン(核子)」のモデル。フォードが構想したが、実際に作られることはなかった。

    ネバダ核実験場で実施された「アップショット・ノットホール」作戦。1953年5月25日、その10回目のグレイブル実験を保護メガネを付けて観察する人たち。爆発の明るさによって、影が長く伸びている。初めて、核砲弾が発射された。

    1946年、マーシャル諸島のビキニ環礁での核実験。一連の核実験はクロスロード作戦と呼ばれる。

    クロスロード作戦から8年。1954年3月1日、ビキニ環礁で水爆実験が行われた。マグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員全23人が「死の灰」(放射性降下物)を浴び、被曝した。

    1956年6月12日、ニューヨーク市。広島で被曝した女性たちが、アメリカで1年に渡る治療を終えて、帰国の途に着く。右端の高橋定医師が持つのは3回目の手術中に命を落とした中林智子さん(享年26)の遺骨。

    1962年、ニューヨークのブルックリン中学で核攻撃に備えた訓練をする生徒たち。

    1950年代、核シェルターの備品を披露するモデルの女性。

    1950年代、運動バイクやテレビが並ぶ核シェルターの見本。

    1951年、核シェルターの前で、最新の防護服を披露する少年と犬。

    (左)1961年、テキサス州。核シェルターから頭をのぞかせる女性。(右)1951年、カリフォルニア州。1995ドルかけて設置した核シェルターに入るルース・コルホーンさんと娘たち。

    1952年、ニューヨーク州。核戦争への備えを案内する家族。

    1953年5月25日、ネバダ核実験場。アップショット・ノットホール作戦のグレイブル実験でキノコ雲があがる。

    (左)1946年、ビキニ環礁での核実験に使うため、檻に入れられたサル。 (右)1946年、核実験のために政府職員によって毛を刈られるヤギ。

    1955年4月、ネバダ核実験場の通称「運命の街(Doom Town)」で、スーパーのワンシーンをマネキンで作る女性。原子爆弾の影響を調べるためだった。

    1955年、核実験で焼け焦げたマネキン。

    爆心から2.1キロ余り(7000フィート)。原子爆弾の影響を示す政府職員。

    1945年7月、ニューメキシコ州アラモゴード近郊。原子爆弾の熱によって、ガラス状になった砂。

    1953年、爆心から1マイル(1.6キロ)に建てられた家。2.3秒で粉々になった。

    ダンサーのジーン・ネルソン。ラスベガス近くの山頂で「原子力の道化師」という題のパフォーマンスを披露する。原子爆弾によるキノコ雲が背景に上がっている。

    1957年、ネバダ核実験場でのプラムボブ作戦。スモーキー実験による爆発。

    この記事は英語から編集しました。