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女性作家は嫌われ者になるわけにはいかない

クッキーを焼くのも仕事のひとつだ。

2005年、私はまだ若い編集アシスタントだった。そのころ、ニューヨーク市で年に1度開催されるアメリカペンクラブのガラパーティーに出席した。

パーティーの場所は、アメリカ自然史博物館の巨大なクジラの模型の下だ。ロビーに足を踏み入れ、ウェイターのトレイからワイングラスを手に取ると、私は自分にこう言い聞かせた。このようなシチュエーションは自分にとってはごく当たり前の日常だ。少しも物怖じなどしていない、と。

けれども、私はすっかり舞い上がってしまっていた。パーティーのきらびやかさに心を奪われていた(今思い返すと、有名な作家や編集者であふれる場に同席して、興奮したり、感動したりしていたのが、不思議にさえなる)。

その時私が着ていたのは、借り物の花嫁介添え人用ストラップレス・ドレスで、肩の後ろにあるタトゥーが丸見えだった。着席ディナーの前のカクテルアワーの間に、有名作家のマーガレット・アトウッドがやってきて、私のタトゥーを誉めてくれた。

当時の私は、このような驚くほど華やかで優雅な場所に、自分がいることが信じられなかった。グラスにワインが注がれるたび、私はそれを飲み干した。グラスは、またすぐにワインで満たされた。

各出版社は、ペンクラブが配布したリストの中から、自分たちのテーブルに作家を1人、招待してもいいことになっていた。私の上司が招いたのは、名前を聞いたことのない女性作家だった。私はガラパーティーに先駆けて、その作家が書いた小説を2冊買って事前に読んでいた。もしかしたら、彼女が自分の作品について私と話し合いたいと思うのではないか、と考えたからだ。

ところが、作品についても、どんな話題に関しても、彼女から意見を求められた人は誰一人いなかった。彼女は私たちに話しかけてこなかったのだ。その女性作家が無礼だったわけではない。会話に加わるのを最小限に抑え、必要以上に話しかけてほしい素振りを見せなかっただけだ。

彼女は、女性がやりがちな行為を一切しなかった。他人を会話に引き込もうとしたり、共感的な笑みを浮かべたり、相手のジョークに対して、あるいはジョークでなかったとしても、笑い声をあげて、きちんと話を聞いていると伝えようとしたりする。私がついやりすぎてしまうそんなことを、まったくしなかった。自分が黙っているのをアピールすることも、わざと人を無視することもなかった。要するに、この業界では当然とされている行動を全くしなかったのだ。タバコを吸うために頻繁に席を立ってはいたけれど。

その女性作家は数年後にベストセラー作家となり、全米で有名になった。面白おかしい実話風の長編小説は、マンハッタンに住む人々のさまざまな習慣や考え方をシニカルに描いた内容だ。私はふと、ガラパーティーのことを思い出した。ベストセラーになったその小説を楽しく読み進めながら、彼女がどんな人だったのか思い起こした。

いや、彼女の様子についてはまったく思い出せなかったのだ。実際に会っているにもかかわらずだ。私は彼女にすっかり感心してしまった。彼女が男性作家だったら、冷淡な態度をとられても印象に残らなかったに違いない。記憶にさえ残らなかったかもしれない。たぶんそうだ。

私は出版業界に携わって約15年になる。他人にいっさい無頓着で、露骨に失礼な態度を見せても、仕事の上では何の非難もされない男性作家たちを無数に見てきた。しかし女性作家はたいてい、そういった態度が許されない。作家として成功したいのであれば、そんなことはしないものだ。

2005年に出会ったその女性作家のようにふるまうには、日ごろから努めて、自己とペルソナ(仮面)をはっきり分けておくことが必要なようだ。彼女はもしかしたら、他人からどう思われようと気にしない性格なのかもしれない。人を寄せつけないためには、作家は自らの才能と技能によっぽどの自信を抱き、影響力を持つ作家仲間や編集者、エージェントはさておき、読者でさえも遠ざける覚悟を持たなくてはならない。加えて、感じの良さや悪さがそのまま収入に反映されるという、高い確率で起こりうることを無視する必要もあるかもしれない。

作家はみな、称賛し合い、助け合い、本の推薦文を互いに提供し、「いいね」を交わし、ひいきし合う人と人とのネットワークを絶えず意識せざるを得ない。出版業界の中心地であるニューヨークに住む作家なら、なおさらそうだ。そうした雑音はつねにあり、時には耳を覆いたくなってしまうくらいだ。

作家は本をひたすら売り続けなければならないことを自覚している。それに、編集者や出版社のヒエラルキーは流動的で、仕事も不安定だ。推薦文のゲラを中途半端なまま送ってくる編集アシスタントがいずれ、自分の書いたものに何十万ドルというお金を出すような編集者になるかもしれないし、できる限り関わるのを避けたいと思っているパブリシスト(広報担当者)が、将来自分の担当になるかもしれない。

ある作家の最新本について容赦なく酷評すべきだと思いながらも、結局手ぬるいレビューを書いてしまう。そうしてしまうのは、いつか公開討論会でパネリストとして並んで座ったり、文学賞の審査員を一緒に務めたりする可能性がゼロではないからだ。ほとんどの人間は、このゲームに参加し、期待されているとおりに行動する。

ゲームに参加しないのは、良心的な兵役拒否者、とても鈍感な人間、何があっても揺るがない自信の持ち主、多額の遺産を受け継いだ人といった人たちだ。そういったカテゴリーに当てはまるのは、たいていが男性であって女性ではない。女性にとって、このゲームに参加することは、選択肢というよりは既定事項であり、仕事の一環なのだ。

だから、私たち女性作家は、朗読会のためにクッキーを焼く。そこそこの本だと思っても、ソーシャルメディアでは絶賛する。人に会って本心をぶちまけることもたまにはあるが、そうしたところで胸がスッとするどころか不安になる始末だ。

偽善者なのは自分だけじゃない。私が知る人はみなそうだ!もちろん、内緒話が世の中に流出して、何年もじっと大人しくしてきた努力が台無しになってしまうこともある。どのみち、出版ビジネスで大事なのは好ましい人間になることではなく、好ましく見える人になることだ。そして、本当に好ましいという人はどこにもいない。

私が昔から憧れてきたのは、人に媚びない、もしくは媚びることができないタイプの女性作家だ。とはいえ、自らそういう作家になろうという勇気は湧かないし、強い動機もない。

思うに、女性作家になるには2つの道がある。1つは業界のゲームに従って、会う人すべてに好かれるようにふるまう道。もう1つは、クールでよそよそしい氷の女王のようにふるまう道だ。理想的は、1年の大半を田舎のリベラルアーツ系大学にこもって、深く傾倒してくれる学生にだけ思想を広め、Facebookなどには絶対に投稿しないことだ。

私の場合、そういう氷の女王、ペンクラブのガラパーティーで会った作家のようになろうと思ったとしても、もう遅すぎる。それに、私の性格にまったく合っていないし、自分がそんなふうに人と接することを考えただけで、おかしくて吹き出してしまいそうだ。私は生まれつき人なつっこく、社交的なタイプだ。他人に興味があり、おしゃべりが大好きで、冷静に人を観察するよりは関わり合いたいと思っている。

ソーシャルメディアが好きなのは(中毒だと言ってもらってもかまわない)、社会的かつ社交的な人間だからだ。自分の性格であまり好きでないところは、誰それからすごく嫌われているのではないかとか、本音を書いたら有力雑誌などから締め出されてしまうのではないかとか、しょっちゅう気にしているところだ。

けれども、そういった傾向の多くがジェンダー的な条件付けであることもわかっている。たとえば、自分の意見を述べる時に、「だと思う」とか「のような」と付け加えてやわらげたり、地下鉄で男性にぶつかられたのに、こちらが謝ったりしがちだ。

好感度がそのまま収入につながるのだとすれば、最近の私はおそらく、間違った方向に向かっている。人当たりの良さを装い続けることができないばかりか、人と面と向かった時に、うわべだけでも好印象を与えようと努力する気持ちが薄れる一方なのだ。できれば1人になりたい、仕事をしたい、家族と過ごしたい。そういう時に、フレンドリーで感じの良い態度をキープするのが、ますます困難になっている。

職業がら、社交的にふるまわなくてはならない状況、たとえば朗読会を開いたり、討論会の司会を務めたり、どこかの文学イベントに参加したりするときには、作家「エミリー・グールド」として人前に立つことになる。そして、相手のほうは私の著作を数多く読んでおり、私をすでに知っていると感じているが、私のほうは相手のことを知らない。さらに、相手が私にもつ印象もそれほど正確でないような場合がある。そういう時、私は、何とかしてそのアンバンラスさを取り繕い、距離を縮めて、相手が気持ちよく感じられるようにしなくてはならないと感じてしまう。

そういうことはたいていは気にならないし、これまでそうやって友だちをつくってきた。けれども、そういう出会いが続いた日の夜は、全身のエネルギーが骨の髄まですべて吸い取られたような感覚に陥る。それでもなお、本を売るためには、バンパイアに襲われた後のようなこの感覚から逃げるわけにはいかないという不安がある。

プロの作家になるためには、非常に社交的で人づきあいが良く、親しみやすい人間にならねばならない。おかしな話だ。しかし女性であれば、それはほぼ必然だと言える。「書評家にゲラを送る時は、できればキュートな便箋を使って好意的な手紙を添えなくてはならない」と誰かから明示的に言われたわけではない。朗読会にはクッキーを焼いていけ、と言われているわけでもない。けれども仲間が実際にそうしていて、それがどうやら効果的であるのを目にすると、それが全員が従うべき標準なのではないかという気持ちになってしまう。親しみ深いとはいえない孤高の人、という正反対のペルソナを作り上げるための、謎めいた不確かな方法に手を出したいのでない限り。

腹立たしいことに、作家を判断するのに、友だちになりたいかなりたくないかを基準にする人が結構いる。その気持ちはわからないでもないが、それでも腹が立つ。私は誰とでも友だちになりたいとは思わない。それに、すべての人が私と友だちになりたいと思わなければならない理由もない。私は作家のフィリップ・ロスやクランシー・マーティンと友だちになりたいとは思わないが、彼らが創造した世界を訪ねてみたいとは思っている。個人的な親しみを感じない場合、女性作家には知的好奇心を示さないというのは間違っている。

2005年に私がまだタバコを吸っていたとして、例の不愛想な女性作家のあとを追って自然史博物館前の階段まで行き、火を貸してくださいと頼んでいたら、何が起こっただろうか? そして、いかにもその時気がついたかのように、「作家の〇〇さんですよね? あなたの『〇〇』という作品が大好きなんです!」と声をかけ、続けて、巷で注目されている噂話か何かを持ち出して自然におしゃべりを始めたらどうなっただろうか。

彼女は私の顔を見て、その目の輝きの向こうに本当の私を見出し、作家の卵であることを読み取ってくれたかもしれない。そして、めったに見せない笑顔を私に向けてくれたかもしれない。いやいや、そんなことはない。彼女はきっと、小声で何かをつぶやいてから数歩離れ、ひとり静かに煙をくゆらせたに違いない。それでいいのだ。とはいえ、そうするのは、われわれのほとんどにとっては、思ったよりも難しいことだ。


この記事は英語から翻訳されました。翻訳:遠藤康子、合原弘子/ガリレオ、編集:中野満美子/BuzzFeed Japan

エミリー・グールドはアメリカの作家・ブロガー。このエッセイは書く仕事について作家たちが綴ったアンソロジー「Scratch」からの抜粋です。

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