タランティーノ監督の作品で輝く、歴代の女性キャラたち

    クエンティン・タランティーノ監督の最新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、同監督が女性をどう描くかについての議論を再燃させている。この問題について探るなら、やはり彼の映画に出てくる女性キャラクターを見ていくのが一番だろう。彼女たちが、すべてを物語っているはずだ。

    Ben Kothe / BuzzFeed News; Everett Collection

    タランティーノにとってカンヌ映画祭は、1994年に『パルプ・フィクション』で最高賞パルム・ドールを受賞して以来、彼がこよなく愛する新作公開の場だった。だからこそ、今年のカンヌで発生した、ニューヨークタイムズの記者ファラ・ナイエリとの険悪なやり取りの気まずい雰囲気が、余計に際立ってしまったのだろう。

    タランティーノの最新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、5月のカンヌ映画祭で初披露され、6分間のスタンディングオベーションを受けた。上映後の記者会見でも、監督とキャストたちが賞賛を浴びていた。

    しかしその席でナイエリ記者は、タランティーノに対して、この1960年のショービジネス界を舞台にした荒唐無稽なコメディ作品で、主演女優マーゴット・ロビーには、何故あまり台詞がないのかという質問をぶつけた(ロビーは、カルト集団マンソン・ファミリー殺人事件の被害者となった実在の人物、シャロン・テートを演じていた)。

    ナイエリは、『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』や『ウルフ・オブ・ウォールストリート』でロビーが演じた役を引き合いに出しながら、「素晴らしい演技力を持つ人物なのに、あなたは今作で彼女に多くの台詞を与えていません。それは、監督の意図的な選択だったのではないかと思います。彼女が話す場面があまりないのは何故なのか教えてください」と質問した。

    タランティーノはこれには答えず、彼女の質問自体を否定した。

    「あなたの仮説は受け付けません」と言うと、あとはロビー自身が、重要なシーンに独りで登場することの多かった役柄を演じる苦労を語るのに任せたのだ。

    質問の仕方が少々悪かったとは言えるだろう。今回の脚本は、キャストに当て書きされたものではない。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』には、数々の有名俳優が、ロビーよりもはるかに小さい役で出演している。しかも、いくらタランティーノが言葉数の多い脚本家だからといって、台詞の多寡は、役柄の優劣を測る方法として確実なものとは言えない。

    しかし、女性ジャーナリストが「気になった」と言うのをそっけなくはねつけたその態度は、ネットで激しい論争を呼んだ(その態度は、彼が2003年に映画評論家のジャン・ウォールと交わした、あまりに刺々しいやりとりを思い起こさせた)。そして、彼にずっと付きまとっていて、#MeToo以降さらにその声が大きくなっていた議論に再び火を付けることになった。

    タランティーノは映画制作において、女性を不当に扱っているのだろうか? 女性にとって有害な存在なのだろうか?

    というのもタランティーノは、まさにそういう人間に見えるからだ。

    14歳のとき初の脚本を書いた映画オタクが、神のごとく崇拝される監督となったそのキャリア。うすら笑いしながら機関銃のように喋る人物で、派手な暴力描写と、短命なポップカルチャー、人種差別的な中傷の愛好家。その作品ポスターが、あちこちの学生寮の部屋に祀られている男。

    タランティーノのイメージ、つまり、彼が公の場で見せる顔と、彼のファンたちに幅広く見られる物騒な傾向は、彼の作品自体と同じくらい存在感をもっている(Twitterのプロフィールで、「あなたの仮説は受け付けません」という表現を使っている人たちは、すぐに危険信号と捉えられるようになった)。

    カンヌでの出来事を受けて、作家のカルメン・マリア・マチャドは、「女性キャラクターなんかくだらないというふりさえしなかった」とツイートした。この発言は、タランティーノの映画自体というよりも、彼自身に対して感じることを表現しているように見える。

    ただ、彼の映画の中心には間違いなく、一筋縄ではいかない、考え抜かれた女性キャラクターたちが存在してきた。これは、そうした女性キャラクターたちを好きであるか嫌いであるかとは別の話だ。

    ここ数年のタランティーノといえば、映画世界のバッドボーイというよりは、そこらによくいる標準的なイヤな男という感じになっていた。セクハラをしたわけではないが、フィルムメーカーとしての自らの目標を追求するためには、女性の健康や安全を無視するのも厭わない、あるいは彼女たちに向けられる暴力には目をつぶる、というわけだ。

    『キル・ビル』のあるシーンでユマ・サーマンに無理やり車を運転させ、その結果、彼女に大怪我をさせたことと、(自身が悔やみつつ認めたところによると)ハーヴェイ・ワインスタインが女性を食いものにしていると知っていながら、彼との仕事を続けたこと。この2つの事実には共通の要素がある。

    こうしたニュースから浮かび上がってくるのは、女性たちの懸念を聞いたのに、それを強引に無かったことにしたタランティーノの姿だ。そうした女性たちは、共に映画を作り、彼を信頼し、彼と交際していた(ミラ・ソルヴィノの場合)。

    こうしたことは、彼の作品を今後一切、無価値だと見なすのに十分な理由だ、と考える人たちもいた。だがそこまでは思っていない私たちにとって、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、再燃していた議論、つまり、彼が女性を、特に女性に対する暴力をどう描いているのかに関する議論の、新しい資料となっている。

    彼が映画に抱いている愛と、「映画とは、恍惚とした喜びをもたらしてくれればそれでいいのだ」という信念が、これまでの彼の作品を際立ったものにしてきた。だがこの信念は、そうした映画が上映されるのは現実の世界であるという事実をはぐらかすための、便利な方法でもある。

    それは、『ヘイトフル・エイト』で、ジェニファー・ジェイソン・リーが顔面を殴打されるのを観ながら、喜んで馬鹿笑いをしている観客でいっぱいの映画館に、いつのまにか自分も座っている可能性があるということだ。

    タランティーノのフィルモグラフィーは今や、30年間という長い期間に及んでいる。良い意味でも悪い意味でも90年代インディー映画のトーンを方向づける鍵となった作品から、大作シリーズものやリメイクものばかりの夏映画のなかで異彩を放つ、中年男性の友情を描いたスタジオ長編映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のような作品まで揃っている。

    そして、そうした一連の作品を、タランティーノがスクリーンに登場させた特に印象的な女性たちというレンズを通して見ると、スリリングな恍惚感と共に、しつこくつきまとう、歪んだ盲点が見えてくる。タランティーノは申し分のない天才か、アンチフェミニストの悪夢か。どちらか一方にしか思えないような傾向はあるとはいえ、彼の作品群は、一言ではなかなか言い表せない。

    フィルムメーカーとしてのタランティーノは、この30年ほどの間にそれほど変化していない。作品の規模は大きくなり、その過程で温かみは失われてしまったが、当初からお気に入りだったテーマや奇妙な癖は、今もほぼそのまま残っている。ただ、いくつか大きな変化があった。私たちが映画に何を求めるか、映画というものをどう語るか、その語りのなかで誰の声が聞き届けられるかが変わったのだ。

    2019年の観客は、タランティーノの新作をこぞって観にいくと同時に、フィルムメーカーには真剣な要求を突きつける。タランティーノはこれまで、映画というものを、そうした要求から逃避できる、善悪にはとらわれない、現実を超越したものとして扱ってきた。そして彼が(まだ)映画の世界を去らないのであれば、この議論も終わらないだろう。

    タランティーノがこうした問いの「仮説」を拒否し続けるのであれば、彼の映画に登場してきた女性たちに物語ってもらうしかないだろう。

    アラバマ・ウィットマン――『トゥルー・ロマンス』(1993年)

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    パトリシア・アークエットとクリスチャン・スレイター 『トゥルー・ロマンス』の一場面より

    夢想家としてのタランティーノをもっともよく表しているキャラクターは、彼の監督作品でなく、彼が脚本を手がけた映画に登場する。トニー・スコット監督の『トゥルー・ロマンス』は、1992年のタランティーノ監督デビュー作『レザボア・ドッグス』の翌年に公開された作品だ。スタイリッシュな殺人が繰り広げられる空虚で楽しい映画『トゥルー・ロマンス』は、オタクの願望を満たす作品だ。

    デトロイトのコミック店で働くクラレンス(クリスチャン・スレイター)が、彼の理想の女性、アラバマ(パトリシア・アークエット)と出会い、2人は銃弾の飛び交う、犯罪がらみの冒険の旅に乗り出すことになる。

    プッシュアップ・ブラとアニマルプリントの洋服という、わかりやすく華やかな衣装に身を包んだアークエット演じるアラバマは、男に都合の良いイメージを何重にも重ねたマトリョーシカ人形だ。カンフー映画の3本立て上映でクラレンスに近づくのだが、知らないはずなのに、クラレンスの好きなものにはすべて興味をもってくれる。サニー千葉(千葉真一の英名)からスパイダーマンまで、なんでもかんでも長々と喋る彼の話を喜んで聞いてくれるのだ。

    彼女が実は、オタクをそそるように演技しているとも気づかず、クラレンスは彼女を、「俺と気があう」と思う。

    翌日アラバマは、実は自分はクラレンスが働くコミック店の店長に、誕生日プレゼントとして雇われたのだと打ち明ける。だが、そこで彼女は、またまったく別のファンタジーを体現する存在であることが明らかになる。なんとアラバマは、客と恋に落ちたセックスワーカーであり、その状況から救い出されて、彼と真剣に付き合いたいと思っているというのだ(クラレンスが、アラバマのヒモでポン引きの男を自ら殺してきた後、彼女は、「殺しちゃうなんて……なんてロマンチックなの!」と言ってすすり泣く)。

    タランティーノが書いた元々の結末では、クラレンスが大規模な銃撃戦で死亡して、映画の幕が閉じるはずだった。この結末であれば、さかのぼってアラバマのキャラクターが少しは夢物語っぽくなくなる、というわけではない。しかし、気が滅入るような結末であれば、少なくともオタクの店員が突如アクション映画の悪役になれるというような「男のファンタジー」を打ち砕くものにはなっただろう。

    だが監督のスコットが選んだ結末は、このカップルが生き延びるというものだった。そして脚本に書かれていた、アラバマが悲しみに打ちひしがれて2人の幸せな思い出を回想するというシーンを、クラレンスに対する、何の皮肉もない、そのままの賛辞へと変えてしまった。「あんたはなんてクールなの。あんたはなんてクールなの。あんたはなんてクールなの」と。

    ミア・ウォレス ―― 『パルプ・フィクション』(1994年)

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    ユマ・サーマン。パルプ・フィクションより。

    今でも魅力的なタランティーノのブレイク作『パルプ・フィクション』に登場するミア(ユマ・サーマン)は、女優をやめてギャングのボス、マーセルス・ウォレス(ビング・レイムス)の妻になった女性だ。レトロさに、アラバマ州の雰囲気が加わった曖昧なオーラを放つ。言葉で表現するより、はるかに興味深い女性だ。

    『パルプ・フィクション』は今見ても傑出した作品だが、特に、脇役ですら生き生きしている点が際立っている。恐ろしいほど好奇心旺盛なタクシー運転手のエスマレルダ・ビラロボス(アンジェラ・ジョーンズ)、モンスター・ジョーズ・トラック・アンド・トウのラクエル(ジュリア・スウィーニー)などだ。ラクエルはわずか数秒しか登場しないが、何か重要な物語を隠し持っているように見える。

    脇役たちより出演時間の長いミアは、小説を1冊書くことができるほどの何かを持っている。落ち着きがなく、予測不能。ビンセントは、手の届かない相手であることを知りながら夢中になる。ミアがビンセントに、相性の良さ以上のものを感じていたかどうかはわからないが、2人のエピソードは別の方向に急展開して終わる。ミアが誤って薬物を過剰摂取し、ビンセントがミアの胸にアドレナリンの注射を突き刺す。そして、ミアは一命を取り留める。

    ミアを演じたサーマンとタランティーノは、さらに2つの長編映画を一緒につくったが、2人の創造的パートナーシップは、撮影時にサーマンが起こした自動車事故という身体的な痛み、個人的な裏切りとともに終わった(ただし、2人の関係は現在修復されているようだ。サーマンの娘マヤ・ホークは、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』に出演している)。

    サーマンは2018年、ニューヨークタイムズの人気コラムニスト、モーリーン・ダウドの取材を受けたとき、ワインスタインと『キル・ビル』の自動車事故に関して(ユマは、ワインスタインらが事故後の隠蔽工作をしたとして非難している)、次のように語っている。「自分に対してひどいことをする人たちを、“自分を愛してくれる”人と呼ぶことをやめるのに47年かかりました」

    ミアが蘇生するシーンを見ると、この言葉が頭に浮かぶ。このシーンは、ビンセントが空想していた別の「貫通」の代替になるブラックジョークのようなものだ。まるで、暴力とセックスが、相互に入れ替わりの効く、楽しい見ものであるかのように。

    このシーンは、残忍性に関して束縛を受けないというタランティーノ的な「自由主義」の基礎が築かれた瞬間と見なすこともできる。すべての人が平等に、残虐行為を働く資格と受ける資格があるというセオリーだ。

    こうしたアプローチがタランティーノ映画を驚くべき場所、ときにはスリルに満ちた場所、ときには混乱した場所へと導いてきた。ただし、実際にはそれは公平とは言えない。私たちは、すべての暴力を同じように見るわけではないからだ。ある種のキャラクターに対する暴力は、ほかの人に対する暴力よりも大きな意味をもつ。

    ジャッキー・ブラウン ――『ジャッキー・ブラウン』(1997年)

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    パム・グリア。ジャッキー・ブラウンより。

    『ジャッキー・ブラウン』は1997年の公開時、『パルプ・フィクション』の控えめな続編と見なされ、同作より一段落ちると評価されていた。近年、クールな若者たちの間で、「実は彼の最高傑作」と言われていることを考えると奇妙なことなのだが。

    エルモア・レナードの小説をベースにしたタランティーノの脚本は、グリア演じるジャッキーがグリア自身と重ねられているため、とても説得力がある。あまりにも長い間、周囲から屈辱的なほど過小評価されてきた女性だ。

    『ジャッキー・ブラウン』はタランティーノ映画で唯一、原作がある。ほかの誰かによる原作があるからこそ、一貫して地に足が着いた映画に仕上がったのかもしれない(主人公の職業は除いて)。そうした映画は、実際に起きた事件がベースになっている『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』まで、つくられることはなかった。

    『ジャッキー・ブラウン』はまた、タランティーノはそうすることを選択すれば、自制できることも証明している。例えば、重要な女性が突然殺されたとき、銃撃犯は映し出されたが、血まみれの惨状を見せることはなかった。

    『ジャッキー・ブラウン』の犯罪現場は、空港の駐車場や、ショッピングモールのフードコートだ。犯罪が魅力的に描かれることはない。そして、ジャッキーは丁寧に描写されている。特に、強盗のパートナーであり、恋愛にも発展しそうなマックスとの、慎重などっちつかずの関係性には、時が過ぎていくなかで必死に生き延びてきたジャッキーの心情が深く描かれている。

    オーレン石井 ―― 『キル・ビルvol.1』(2003年)

    Everett Collection

    ルーシー・リュー。『キル・ビル』より。

    ルーシー・リュー演じるヤクザの親分オーレン石井に、悪役という言葉は似合わない。むしろアンチヒーローというべきだ。悲しみと怒りに満ちた生い立ちが、アニメーションを駆使しながら、一度に明かされる。

    キル・ビル・シリーズの入念に演出された暴力は、大部分が復讐を目的としている。そして、復讐は神聖な権利のように描写されているが、同時に、映画のヒロインだけの特権でないことも明示している。

    タランティーノの構想とは異なり、キル・ビルは2作品に分かれているが、2作品が合わさって、きわめてフェティッシュな世界が構築されている。さまざまなアクション映画の要素がちりばめられており、自分の好きな作品に対する愛情に満ちた敬意と、「私物化」の境界線上を行き来している。

    タランティーノが関わる人種問題を掘り下げようと思ったら、もう一つ別の記事を書く必要があるが(『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でも、ブルース・リーの描写が問題になっている)、タランティーノは容易に押さえ付けられるような人物ではない。

    オーレンは複数の民族の血を引いており、国籍に関する自分の権利を懸命に守ろうとする。これが、型にはまった東京の姿と対比を成す。オーレンはベアトリクスと戦いながら、「日本刀で遊びたいだけのバカな白人女」とののしる。航空機に飛び乗るだけで、服部半蔵(千葉真一)から刀を贈られる外国人とは異なり、自分が生まれた国の一員になるため、必死に戦わなければならない女性の複雑な心情が、魅力的に表現されている。

    ベアトリクス・キドー ――『キル・ビルvol.1』(2003年)

    Everett Collection

    ユマ・サーマン。『キル・ビル』より。

    『キル・ビル』のエンド・クレジットには「Q&U(クエンティンとユマ)がつくり出したブライド(ベアトリクス・キドーの別名)のキャラクターに基づく」と記されているが、このクレジットは今では、16年前と異なった感じを受ける。サーマンは、撮影現場で自動車事故に遭った後、「制作貢献者兼出演者から、壊れた道具に成り下がった」と語っている。

    スクリーン上のブライドことベアトリクス・キドーは、たしかに共同作品のように見える。スーパーヒーローに見える戦士の内側では、母性と幸せ探しという、驚くほど複雑な感情が脈打っている。

    タランティーノは、女性が主役のアクション映画を見事につくり上げた。戦いのシーンは無慈悲なほど性別に無関係だが、登場人物に関しては、女性という性別が深く考慮されている。それでも、気分爽快であることには変わりない。青葉屋でのベアトリクスとオーレンの戦いなど、壮大なアクションシーンが続き、ビル(デビッド・キャラダイン)とテーブル越しに身の上話をする山場へと向かっていく。

    サーマンからの助言なしに、このようなバランスが生まれたとは考えにくい。当然ながら、『キル・ビル』以降、サーマンなしで制作されたタランティーノ映画では、そうした繊細な緊張感は失われ、不快な雰囲気が次第に目立つようになっている。

    とはいえ、ベアトリクスが昏睡状態に陥ったときの出来事、そして『キル・ビル』の復讐劇へとつながった出来事は、おぞましいとしか言いようがない。数年にわたって意識を失っている間、ベアトリクスは繰り返し性的暴行を受けた。物語という視点から見れば、この部分は決して不要ではないが、セックス人形のように体を扱われることの明白な恐怖を、不快なほど軽薄に扱っている。

    「ベアトリスのレイプ」は、その後の露骨な復讐とその熱意を正当化するものだが、そうした正当化の前に、ベアトリスに何が起きたかが楽しげに描写される(薄汚れたワセリンの容器については、忘れたくても忘れがたい)。

    ショシャナ・ドレフュス ―― 『イングロリアス・バスターズ』(2009年)

    Everett Collection

    メラニー・ロラン。『イングロリアス・バスターズ』より。

    暴力を正当化する歴史的背景が、2009年公開の『イングロリアス・バスターズ』と、2012年公開の『ジャンゴ 繋がれざる者』の枠組みとなっている。それぞれ、ナチスと奴隷所有者に対し、タランティーノは自身のサディスティックな気質をあらわにしている。

    こうした壮大な映画では、登場人物も壮大に、つまり大ざっぱに描かれる傾向がある。それまでのタランティーノ映画に見られた風変わりな質感や人間らしさが失われるわけだ。

    『イングロリアス・バスターズ』では、ユダヤ人の少女、ショシャナ・ドレフュス役のメラニー・ロランがさらに重要な役割を演じている。「ユダヤ・ハンター」と呼ばれるハンス・ランダ大佐(クリストフ・バルツ)の命令により、ショシャナは目前で家族を皆殺しにされる。ショシャナはその後、ナチス占領下のパリで、別人になりすまして映画館主となり、復讐の時を待つ。

    『イングロリアス・バスターズ』には、死ぬために送り込まれたとしか思えないキャラクターが次々と登場する。しかし、最初のシーンから壮大なラストまで、ショシャナの心がブレることはない。短い見せ場を与えられたキャラクターが多いなか、ショシャナだけは本物の人生を送っているように見える。

    ショシャナは、恋人のマルセル(ジャッキー・イド)と愛を交わす一方で、会食の場でランダ大佐と話さざるを得なくなったが、ショシャナが逃げ出した少女であることにランダが気付かなった後で、震えながら安堵のため息をつく。ショシャナはさらに、ドイツ軍の英雄フレデリック・ツォラー(ダニエル・ブリュール)から思いを寄せられる。そしてショシャナは、ナチス高官を招いたプロパガンダ映画の上映会を企画し、ニトロセルロース(硝酸繊維素)フィルムを使って劇場もろとも焼き殺すという計画を考えつく。

    映画評論家たちがスパイや凶暴なゲリラ兵に変身し、ナチス党員たちの額にナチスのシンボルを刻むといったシーンが続くなか、ショシャナとツォラーのシーンは際立っている。現実世界でよくある体験を鮮やかに思い出させてくれるからだ。つまり、拒絶されたら報復しかねない男性に言い寄られ、どうにか対処しようと試みる女性の姿だ。

    B級映画の力を借りて、過去を書き換えること。歴史上の残虐行為を利用して、さらに強欲な何かを暴くこと。タランティーノのこうした手法に、真剣なテーマとしての重みを観客が見いだすかどうかにかかわらず、ショシャナの最期が重いシーンであることは否定できない。

    しかし、それがさらに痛切に感じられるのは、ショシャナがツォラーに近くときのあり方だ。ショシャナは一瞬、思いやりを見せ、それが彼女の運命を決定づけた。鋼のように固い決意を秘めた女性が柔らかなところを見せた瞬間であり、それがショシャナの最期となった。

    デイジー・ドメルグ――『ヘイトフル・エイト』(2015年)

    Everett Collection

    『ヘイトフル・エイト』のジェニファー・ジェイソン・リー。

    『ヘイトフル・エイト』(2015年)では、心が和む場面がたった一度だけ登場する。ただしそれは、残虐な悪ふざけの前振りだ。ジェニファー・ジェイソン・リー演じるお尋ね者の重罪犯デイジー・ドメルグは、自分を助けに来た弟ジョディ(チャニング・テイタム)と再会し、愛情こもったやりとりを交わす。だが、それもつかの間、ジョディはすぐに頭を撃ち抜かれ、デイジーは弟の脳みそを全身に浴びるのだ。

    甘美なシーンが皆無なこの作品で描かれるのは、差別主義、女性蔑視、階級社会に対する憤り、貪欲さ、犯罪者同士の結託、戦争といったものによって分断された人々が、1877年にワイオミングの辺境で足止めを食ったときに起こる出来事だ。歴史的な正しさは無視され、当時の醜悪さにどっぷりと浸ったこの作品では、見る者の共感が登場人物のあいだを行き来する。

    登場人物の全員が、さまざまな憎悪に満ちた(ヘイトフルな)人間たちであることは、映画のタイトルからも明らかだ。賞金稼ぎである主人公のマーキス・ウォーレン(サミュエル・L・ジャクソン)について、薄笑いを浮かべながら、黒人だと差別して口汚く罵る憎まれ役のデイジーも、例外ではない。

    しかしデイジーは、猛吹雪で密室に閉じ込められた8人のなかの唯一の女性だ。そして、彼女が暴力を受ける側に回ったとき、その暴力は必然的に、不快なパンチラインとして提示される。男たちは、それが可能だという理由から、自分たちよりはるかに小柄な人間を、楽しげに何度も痛めつけるのだ。

    賞金稼ぎのジョン・ルース(カート・ラッセル)は、お尋ね者のデイジーを捕まえ、絞首刑にするために町まで連れて行こうとしている。それを知ったウォーレンは、女性を処刑することについて話題にするが、二言三言交わしただけで、話はあっさりと片づけられてしまう(ウォーレンはルースに、「女を吊るすのに迷いはないようだな」と述べる)。

    『ヘイトフル・エイト』は、忌まわしい登場人物たちのなかの誰かを是認しているわけではない。しかし、「彼ら以外の視点」が存在しているわけでもない。物語は、デイジーやその仲間からの襲撃を受けながら最後まで生き残った二人の男が、ともにデイジーを軽蔑しながら、個人的な憎しみに負けることなく、公正に絞首刑を受けさせることで幕を閉じる。

    この映画はアメリカのトライバリズム(同族意識。部族中心主義)について、何かを訴えようとしているのかもしれない。しかし、それがどうであれ、ラストシーンでデイジーが首を吊られて苦しみ、空を足で蹴る姿を見て男たちが喜ぶシーンは、作品自体がこの見せ場を楽しんでいることと表裏一体だ。

    シャロン・テート――『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019年)

    Everett Collection

    『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のマーゴット・ロビー。

    『ヘイトフル・エイト』が真の邪悪の極致を象徴していたのだとすれば、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は控えめな救済の映画だ。最後のシーンに至るまで、切なさと物悲しさが漂うこの作品は、反体制文化とアメリカン・ニューシネマ(60年代から70年代に製作された、反体制的な若者に関する映画)の流れに取り残され、ショービズ界で過去の人になりつつある男性2人の友情を描いた物語だ。

    主題は、1969年にハリウッドのシエロ・ドライブで起きた「シャロン・テート殺人事件」ではない(女優シャロン・テートが、友人ら6人とハリウッドの自宅で惨殺された事件。狂信的カルト集団の指導者チャールズ・マンソンの信奉者が実行犯で、白人富裕層の殺害が狙いだった)。それどころかこの作品は、実際の事件へと発展する経過と並行して進みながら、ある重要な時点で、歴史を修正する行為へと、不意に舵を切る。

    主人公は架空の人物で、盛りが過ぎたテレビ俳優リック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)と、そのスタントダブルで親友、運転手と雑用係をこなすクリス・ブース(ブラッド・ピット)だ。2人は、シャロン・テートとその仲間を救おうとしたわけではないのだが、図らずも殺人者たちの犯行を阻止することになる。

    やがて訪れるクライマックスでは、不吉なシーンが続き、奇才タランティーノ特有の不協和音が奏でられる。犯人たちは、史上最悪の残虐な悪人に数えられる者たちだが、この作品は、映画という魔法を通して観客に届けられる、犯人たちへの痛快な報復行為だ。ただし、男性たちが笑いながら実行犯の若い女性2人の頭を強打する際に、彼女たち側の視点は、無造作に忘れられている。

    マーゴット・ロビー演じるシャロン・テートの描写には、タランティーノ史上で最も美しいシーンが含まれている。たとえば、新進女優シャロンが、自分が出演した作品を映画館に見に行く場面だ。ディーン・マーチンがスパイを演じる平凡なコメディ映画『サイレンサー 破壊部隊』で脇役を演じていた彼女は、自分の出演シーンで聴衆が笑うと嬉しそうにする。

    または、シャロンが遠くから映し出される冒頭シーン。リックの家を臨む丘の上に住むシャロンは、のちに失脚する映画監督ロマン・ポランスキー(ラファル・ザビエルチャが演じており、セリフはほとんどない)の妻で、若く美しいパーティーの花形だ。しかし、彼女が出演作を見に映画館を訪れ、(疑い深そうにしながらも愛想のいい)切符売りに素性を明かし、眼鏡をかけて映画を見始める場面で、自分の出演作をひそかに楽しむ姿が写し出されると、心が痛む。映画内で上映されている『サイレンサー』に登場しているのは、デジタル処理をして挿入されたロビーではなく、本物のシャロン・テートだ。

    『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、B級作品に対する賛歌だ。量産され、視聴されて消えていくテレビ番組や、誰の記憶にも残らない映画を称えているのだ。文化的ガラクタを生み出すことは今でも、ある種の勇気ある行為だという考え方が、思いやりのかけらもないような一連のタランティーノ作品のなかで、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を心優しい作品にしている。時おり起こる衝撃的な事件は別としてだ(俳優ロバート・ワグナーを連想させるクリフは、本当に妻を殺したのだろうか)。

    この作品が示した最大の優しさは、シャロン・テートを殺人事件の犠牲者という闇から救い出し、ごく普通の、魅力的にも平凡にもなりうる女性として描写した点だ。女優として成功したかどうかはわからないが、その後も続いたであろう、不完全で生き生きとした彼女の人生、悲劇に閉じ込められた人間ではない「別の人生」を、大胆に描いている。


    クエンティン・タランティーノはかなり前から10作目を制作したら映画界から引退すると明言してきた。それが言葉通りならば、次回作はタランティーノにとって最後の作品となる。

    映画監督としての彼は、いまではもう珍しいと言える幸運に恵まれてきた。それは、決して安くはないオリジナル作品をつくるために、制作費を獲得し、才能あるチームを指名できるという幸運だ。そんなことが可能な古参の大物監督は、もうあまり残っていない。

    『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、公開初週の興行収入でタランティーノのキャリア最高額である4100万ドルを記録した。こうした事実がひとえに強調するのは、映画界を引退してテレビや演劇界に移るという彼自身の選択は個人的なものであり、映画界の変化によるやむを得ない選択ではないということだ(『GQオーストラリア』誌とのインタビューでタランティーノは、「映画でやらなければいけないことはすべてやり尽くしたと思っている」と発言している)。

    しかし、映画界はたしかに変化しつつある。天才監督の時代はずいぶん前から、終わりに近づいている。その代わりに訪れた時代を支配するのは、企業が所有する知的財産だ。そして、それを貴重だと考えるのは、監督や映画スターというよりもスタジオ幹部である。

    タランティーノは、次回作『スター・トレック』の制作についてすでに協議に入っており、彼に言わせれば『パルプ・フィクション』の宇宙版になるという。要するに、タランティーノが映画界に寄与する最後の作品は、彼にとっての初のフランチャイズ映画になるかもしれないのだ。

    人々に愛されてきた映画ブランドならではの、制限を受けるかたちでの映画づくりにタランティーノが乗り気だということは、たとえそれが冗談だとしても、多くの監督がいま大きな仕事に挑戦したいと考えたときに余儀なくされる事態を反映している。そう考えると、映画界を去るというタランティーノの選択にはほろ苦いものがある。なぜなら、彼の作品が好きではないとしても、タランティーノが映画界を去ったあと、同じような辛辣さや規模をもつオリジナル作品の制作という点では、彼のあとを継げる機会を与えられる人はおそらくあまりいないからだ。

    『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、ごくありきたりな普通の映画を量産する人々へのラブレターだ。そして皮肉にも、業界におけるタランティーノの並外れた地位があったがゆえに、さほど魅力的ではないこうした作品を誕生させることができたのだ。

    それこそ、嘆くべきことだ。ハリウッドは、明確なビジョンを持った監督のアイデアに対する興味を大いに失ってしまったのだから。風変わりで、冒険心にあふれ、個人的な思い入れのある作品や、独創的な芸術が誕生する可能性が大きく失われてしまう。ストリーミングサービスは、その損失をおざなりに埋めようとしているにすぎない。

    とはいえこれまで、映画監督を神と崇める古い姿勢のために、多大な犠牲が払われてきた。映画界はタランティーノに対し、その芸術的ビジョンの優越性を疑う根拠をほとんど与えず、あふれんばかりの称賛を浴びせて彼の作品を守ってきた。

    そのため、誰がどのくらいの自由裁量を手にするのか、ひとりの人間のビジョンを何よりも高めるために、誰の利害が無視されるのかについて、格差が生まれてしまう。自動車事故を起こしたユマ・サーマンのように、自らの身の安全を考えて声を上げようとしたときでさえもだ。

    視聴者や評論家が、タランティーノ作品における女性の扱い方などを取り上げようとすれば、彼らの意見を割り引くために、天才というレッテルが免罪符として使われることもある。

    2019年5月にカンヌ国際映画祭で交わされた一瞬のやりとりを別とすれば、タランティーノは自身の映画づくりに対するアプローチについて、挑発されたことがあまりないようだ。そして、実際にそうした場面に遭遇した彼は、単に回答を拒むばかりか、質問の意図さえも否定した。

    拒否的なその姿勢を支えるのは、タランティーノがこれまでずっと脚本のなかで描いてきた、躍動感があって印象的な女性たちだ。同時にその姿勢は、映画は現実社会の不安からパワーを借りることが可能だが、実際の人間、とくにその不安を身をもって感じている女性には一切、何も負っていないという彼の主張を象徴している。

    そういった類いの確信を持つということ、自分がつねに正しいと信じることがどういう状態なのか、想像してみてほしい。

    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan

    Alison Willmore is a critic and culture writer for BuzzFeed News and is based in New York.

    Contact Alison Willmore at alison.willmore@buzzfeed.com.

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