私の息子はISの死刑執行人

「ビートルズ」の母が、BuzzFeed Newsに「完璧な」息子たちがどのよう変わっていったのか語った。

    私の息子はISの死刑執行人

    「ビートルズ」の母が、BuzzFeed Newsに「完璧な」息子たちがどのよう変わっていったのか語った。

    イギリスのEU(欧州連合)からの離脱が24日、国民投票の結果で決まった。イギリスに離脱派の人たちが増えた大きな理由の一つが、国内への移民の流入を止めたいということだった。IS(イスラム国)に加入し、「ビートルズ」と呼ばれることになった青年たちも、イギリスの移民の一家の息子たちだった。BuzzFeed Newsは、この「ビートルズ」の母に話を聞いた。

    エル・シャフィ・エルシャイクは幼かった頃、西ロンドンのホワイト・シティにある庭の隅の小屋で、いつまでもエンジンのモーターやバイクの部品、古いコンピューターなどをいじって修理していた。彼の母は、その姿を今もよく記憶している。

    エルシャイクは、華奢な妖精のような顔立ちで、目は大きくアーモンド色、黒いカールのかかったふさふさとした髪の下には、先の尖った耳があった。地味な印象の彼は、その小さな手で熱心にパーツを扱い、機械を動かしているのは何か、壊れた時にはどう修理すればいいのかを学んでいた。

    その数年後の2011年、エルシャイクが20代前半になった時、母は彼がこそこそとCDプレーヤーで憎しみの言葉を連発する音楽を聴いているのを発見した。母が彼のヘッドフォンをひったくった時に流れ出て来た言葉は、あの悪名高きアルカイダとつながりのある西ロンドンの説教師ハニ・アル=シバイのものだった。エルシャイクは機械工学の資格を取得し、車や遊園地の乗り物の修理で生計を立てていたことが判明している。彼は物静かで、勉強好きで、家族を大切にし、母親のことを誇りに思っていた。しかし、母親は、あの日庭で初めて、彼が理解不能な思想に落ちたことに恐怖を感じたという。

    それから5年。母親のマハ・エルジズーリはその小屋の側に立ち、今でもかわいい自分の息子が、どのようにして世界最重要指名手配テロリストに変わったのかを、何とかして理解しようとしている。BuzzFeed Newsとワシントン・ポストは、エルシャイクは「ビートルズ」として知られる4人のイギリス人監視役からなる悪名高きISの処刑集団の一員であり、人質27人の斬首や、電気ショックや水責め、模擬処刑による捕虜の拷問に関与したことを確認した。彼は、このグループのナイフを巧みに操る処刑人「ジハーディー・ジョン」がモハメド・エムワジと判明したあと、他の2人の監視役が仲間で西ロンドン出身のアレクサンダ・コーティとアイネ・デイヴィスと特定された。エルシャイクは、このテロ集団の中では4番目、最後に名前が特定された。

    今回、エルシャイクの母は、息子がイスラム過激派に改宗し、2012年春、彼がジハードに参加するために出て行って以降、初めて公に語った。彼が家を出て行ったすぐ後、10代の弟も彼に加わった。昨年エルジズーリは、下の子どもがイラクでIS(イスラム国)のために戦い、殺害されたことを耳にした。「完璧な子どもたちだったんです」と、彼女は絶望的な様子で語る。「(変化は)ある日突然起きたんです」

    子どもの急変が信じられないというエルジズーリの様子は、ISに子どもを奪われたイギリス中の何百人もの家族の経験と共通する。近年、800人以上のイギリス市民が、ジハードに参加するためにシリアやイラクに渡航している。「ビートルズ」の4人のメンバーは、全員普通の若い青年で、エルシャイクが育った西ロンドンの同じ地区の出身だ。そこのモスクで過激思想に染まったのだった。モハメド・エムワジについては、イスラム過激主義に出会い、「ジハーディー・ジョン」になる前は、サッカーとポップミュージックが好きな「いいヤツ」だったと、学校の同級生は振り返る。仲間の監視役アレクサンダ・コーティの友人たちは、彼は「おとなしく、謙虚な」人で、改宗する前は熱心なサッカーファンだったと話した。母によると、エルシャイクは「とっても、とっても利口」で、おとなしく、心優しい「とてもいい男の子」だったそうだ。彼女の話の核心部分には、過激主義の広まりに対処しようともがく、英国の様々なコミュニティにおいて、繰り返し問われてきた同じ問題が存在しているのがみえる。 一体何が、このような勉強好きで、謙虚な若者を、殺人鬼に変えてしまったのだろうか?

    エルジズーリは我々を庭に招き入れてくれた。庭には息子の痕跡はあちこちにあった。エルシャイクの作業場はその場を後にした時と同じ状態で、工具やナット、ボルトがいくつか散らばっていた。子どもの頃に彼が植えた木もある。芝生を渡ったところには、マフムードの木もある。草の上には、エルシャイクが集めたタイヤが山積みにされており、緑や赤、青などの色にペイントされている。小屋では、彼女は兄弟がよく遊んだという蓋のされた浴槽や、暖かい日にエルシャイクが眠ったというベッドを指さした。

    エルジズーリは、小柄で繊細な人で、長袖の黒いシャツの上にサイズの大きいグレーのウールのジャンパーを羽織り、どこか自分の心の奥底に沈み込んでいるような印象だ。息子たちについて話す時、彼女はしばしば一時的に元気を取り戻し、子どもたちの若い頃の成果を、明るい面もちで話しては我に返り、次第に声は小さくなり、過去を思い出していた。家の中に戻り、フレームに入れられた子どもたちの写真に囲まれながら行われた90分のインタビューが進む中、彼女はクリーム色の大きな肘掛け椅子に座り、ゆっくりと話をしてくれた。

    一家は1993年にスーダン内戦から逃れて以降、ホワイト・シティに住んできた。エルシャイクの両親は共産主義者で、リベラルなムスリムで、友人からは「進歩主義者」と言われていた。数年後、父親は妻と3人の子どもを残して家を去り、子どもたちは離婚にショックを受けた。シングルマザーとして3人の子どもを育てるのは大変なことだったと、エルジズーリは言う。しかし彼女は、「子どもたちが必要なものは全て」与えられるよう、懸命に働いた。「子どもたちが家で好きなことをできるのが嬉しかったんです」と彼女は話す。「息子たちが友達を連れて来るのを目にするのが好きでした」

    エルシャイクは弟のマフムードや、長男のハーリドとも仲が良かったのだが、何時間も庭の作業場で独りで過ごすこともあった。ある時、エルジズーリのコンピューターが壊れた時、彼は母のために徹夜で修理をしたのだという。「彼は働き者です」と彼女は自慢げな様子で意気揚々と語る。「彼のことをとても愛しています。本当にいい子なんです」。息子に対する愛情について話す時、彼女はしばしば上を見つめ、茶色い縁の眼鏡の下から涙が流れ出ないようにしなければならなかった。手は椅子の肘掛けを握り、深呼吸をして話を続けた。

    エルシャイクの機械に対する強い興味は10代の頃はずっと続き、高校を卒業すると、機械工学を学ぶために、アクトン・カレッジに通った。卒業後は地元の自動車修理工場に就職し、副業で「シェパーズ・ブッシュ・グリーンで機械の修理をしていた」と母は話す。「あの、大きな遊園地の仕事です」

    当時の彼女の目には、とても勤勉で責任感があるように映ったため、母は彼に一家のお金の管理を任せた。「あの子は、私の面倒をよく見てくれました」と彼女は話す。

    エルジズーリは、極端な富と貧困の格差により、緊張感や不和が広がる西ロンドンの神経質な街のトラブルから子どもたちを守ろうと、懸命に働いた。しかし、長男のハーリドは喧嘩っ早い連中とつるみ始めた。そして2008年、19歳の時にエルシャイクは喧嘩に関わり、ナイフでひどい攻撃を受けた。「シャフィに何かあったんです。喧嘩をして、場所はわかりませんが、どこかで捕まったんです」とエルジズーリは話す。「ある男がシャフィの背中や脇、ここや、このあたり、それからここを刺したんです」と、彼女は身体のあちこちを身振りで指しながら話した。

    母によると、ハーリドは後で攻撃した人物を見つけ出し、彼と闘い、喧嘩中に耳の一部を切られたという。この喧嘩は西ロンドンのライバルギャングのメンバー間で、いくつもの小競り合いを引き起こし、最終的にはハーリドの15歳の友人が彼を殴った若い男の殺害を企てることにまで発展した。この10代のガンマンは殺人罪で有罪判決を受け、ハーリド自身も殺意を持って銃を所持した罪で懲役10年の判決を受けた。

    ハーリドが有罪判決を受けたことは、エルシャイクに大きな影響を与えた。自由民主党の元評議員で、家族と20年の付き合いがあるスーダン人コミュニティのリーダーのサレフ・アル・バンダー博士は、彼のことを「非常に優しく、とても思慮深く、非常に我慢強い」青年で、「自分のことを守ったがために、兄が何年も刑務所で過ごすことになったことについて、とても動揺していた」と説明した。

    2008年以降一家と一緒に生活をしてきたエルジズーリの親しい友人は、父親に見捨てられてからはハーリドが家族のリーダーとなっていて、彼が収監された時、弟たちは2人とも深い衝撃を受けていたと語った。兄弟は「とても仲が良かった」と、ブルジスという名前でしか身元を明かさないよう求めるその友人は語った。「ハーリドが刑務所に入った時、2人とも途方に暮れていました」

    その後、エルシャイクは事実上「一家の大黒柱」となり、ブルジスによると、マフムードは彼の言うことなら何でもしたという。「彼は兄をとても尊敬していました」

    兄の犯罪を受け入れられるようになると、エルシャイクは恋に落ちた。21歳の時には、子どもの頃の恋人で、トロントの近くに住む叔母を尋ねた時にカナダで出会ったエチオピア人の女の子と結婚したいと母に告げた。エルジズーリは喜んだ。「それはいいご縁ね、と言ったんです」と彼女は語る。「息子は幸せに、生き生きと生きると思ったんです」。母は2人が「一緒に成長する」ことを望んだ。その1年後の2010年、2人はカナダで結婚し、スーダンの伝統的な衣装を着て6日間のお祝いを開いた。

    エルシャイクは花嫁をイギリスに連れて帰ることを約束したが、イギリスの入国管理規則により彼女の入国ができず、ひどく落胆した。結婚から1年後、彼は彼女を置いてホワイト・シティに戻り、制度に怒りを感じながら、再び自動車修理工場で働いた。過激化するこの地区のイスラム主義者の他の若者たちから影響を受け始めたのは、この頃だった。

    エルジズーリは、父親が熱心なイスラム主義者であるエリトリアの若い男性と息子が友達になり、彼が家に来た時にジハードを訴えているのを立ち聞きしたと話す。「私は彼に直接言いました。『もう一生、家に来てジハードの話はしないで。宗教については、あなたではなく、私が子どもたちに教えるの。変な情報は与えないで』と」

    その青年は謝った、と、彼女は振り返るが、そのたった数日後、息子が友人と一緒に小屋でイスラム過激主義の説教を聴いているのを見つけた。「彼が息子と一緒に庭の奥でCDを聴いているのを見つけたので、何が起きているのかはわかりました。彼のところへ行くと、ヘッドフォンを外して隠したからです」と母は話す。「私は『シャフィ、それを渡して。誰のものか確認する必要があるの』と言いました。彼はCDを渡しました。それは、幹線道路沿いにあるモスクで活動する男性のものだったんです」

    CDにはハニ・アル=シバイが録音した説教が収録されていた。彼は国連のアルカイダ制裁リストに登録されている悪名高い西ロンドンの説教師で、以前には7月7日のロンドン同時爆破テロを「偉大なる勝利」と表現したこともある人物だ。アルカイダのリクルート活動をするなど、エジプトでのテロ関連行為に関しても欠席裁判で有罪判決を受けている。以来シバイは、「ビートルズ」によって捕らえられた27人の人質をカメラの前で斬首するのを指揮したモハメド・エムワジの過激化に関わってきた。

    エルジズーリは恐怖を覚えた。CDの中で彼女は、シバイが弟子たちに、ジハードを戦う聖なる使命の道へ進もうとするのであれば、「親よりもアッラーの方が大事」なのだから、両親の言うことは無視するようにと促しているのを耳にした。彼女はこう語る。「シャフィと話してこう言いました。『シャフィ、ここを出て、死んだムスリムになりたいの?』すると彼は『お母さん、違う。ただ話を聴くように言われただけなんだ』と話したんです」

    しかしその直後、彼女は息子がその地区の3つのモスクに通い、シバイの説教を聴き始めたことを知った。

    バンダーも、エルシャイクのその後の変化は驚くほど速かったと話した。「言葉遣いの穏やかな、とても優しい子どもが、どうしてこれほど短い期間で、急にISに参加するにまで変化したのか、今でも理解しようとするのがやっとです」と彼は語った。「数週間の出来事でした、本当です。ものすごく速かったんです」

    「両親はスーダンの残虐な体制から逃れて来た熱心な共産主義者で、とても革新的な一家の出身だったので、驚きました」と彼は語った。「このオープンで革新的な環境の中でも、彼はこのとても過激な思想を見出したのです」

    エルシャイクはすぐに長い黒のローブを身にまとい、髭を生やし、何日もシェパーズ・ブッシュ・マーケットの外でイスラム主義の文献や香水を配ることに費やした。彼の変化はあっという間で複雑な出来事だったので、母は彼がドラッグの影響を受けていると考え始めたのだという。リクルーターが弟子に配っている「アラブの香水」に混ぜ物を入れ、「肌から脳に成分が流れている」のではないかと疑った。食べ物や飲み物に、心を変化させるような物質が混ざっているのではないかとも考えた。彼女には1つ確信を得ていたことがあった。「シリアで起きていることは知っていました。あれはイスラムでは全くありません。イスラムはあれとは全く違います。彼らは政治的にイスラムを利用しているのです」。彼女には、なぜ息子がその思想にはまったのか、理解できなかった。「シャフィはとても、とても利口な子です。誰も彼を騙すことなどできません。息子のことは私がよくわかっています」

    エルシャイクが改宗した時、一家と一緒に生活をしていたエルジズーリの友人ブルジスもインタビューの一部に同席した。、説教を受けに行くようになってから、彼が母に反発するようになった時の様子を振り返った。「彼らは礼拝者を操っていました」と彼女は話す。「シャフィは家に帰って来ては、母のイスラムの解釈について何時間も反論するようになりました。彼が彼女とこんな風に口論したことは一度もありませんでした。とても尊重心を持っていたんです」

    「ある日、彼があなたのところにやって来た時のことを覚えている」と、彼女は肘掛椅子に座るエルジズーリの方へと向かい、鼻のすぐ上の方を指さしながら語った。「『だから、母は敵かもしれないとアッラーは言っているんだ』って話したんです」。彼女は後ろに下がり、「奴らは彼を洗脳したんです」と話した。

    エルジズーリが息子と直接顔を合わせて話した最後の会話は、彼が歩み始めた道に対する彼女の恐怖感を増幅させることにつながった。彼女はその頃、ローブに身を包み、頭を剃り、長い髭を蓄えた若いシリア人で、モスクに出入りしていた息子の友人と会い、その彼に嫌気がさしていた。その2ヶ月後、「シャフィが泣いているのを見つけたんです」と彼女は言う。何があったのかを尋ねると、彼は母に詰め寄り、こう話した。「母さんが嫌いなあの彼を知っているだろ? 彼が死んだ。亡くなったんだ」

    「どこで?」と母は尋ねた。

    「シリアだ」

    そのショックがあったにも関わらず、エルシャイクは弟のマフムードにモスクへ一緒に付いてくるように促した。シングルマザーだったため、エルジズーリは自ら説教を聴きに一緒に中に入ったり、そこで教えられていることに異議を唱えたりすることはできなかった。10代のマフムードにも、兄にほんの数ヶ月前に見られたのと同じ過激化への初期兆候が見え始めた。

    どうすればいいのかわからず、エルジズーリはスーダンへと渡り、家族のもとを訪れた。2人の子どもをどうやって家に戻せばいいのか、助言が欲しかったのだ。「スーダンには大家族がいます。みんな共産主義者です」と彼女は話す。「みんな頭がいいのです」。親族に囲まれて気持ちは落ち着いたが、ロンドンに戻ることになっていた日の前夜、彼女はエルシャイクとSkypeで会話し、彼がどこにいるのか不安になった。「『家の様子を確認したいから、家で待っていて』と私は言いました」と彼女は話す。彼はなんとかその要求から切り抜けたのだが、彼女は彼にこう告げた。「車にガソリンを入れておくのよ。私のフライトはこうこうこうなので、空港まで迎えに来てもらわないといけないから」。すると彼はこう答えたのだという。「OK、母さん、バイバイ」

    彼女が空港のゲートをくぐり、人混みの中で息子の顔を探していると、身体の中でパニックが起きるのを感じた。「シャフィを探していたのに、見つかったのはマフムードだけでした」と彼女は言う。「彼の姿を見ると、このあたりに痛みを感じました」と、彼女は胸を指しながら話しを続けた。「というのも、彼はイスラムのローブを身にまとっていたからです。『その恰好はどうしたの、マフムード?』と私は言いました。彼は『ムスリムになったんだ』と言いました。

    当時17歳だったマフムードは、兄の居場所については固く口を閉ざしていたが、近所の人がエルジズーリに、彼が数日前に旅行バッグを持ってタクシーに乗り込む姿を目撃したという恐ろしい情報を伝えた。それは2012年4月のことで、彼女にとって最悪の悪夢が現実のものとなった。息子がジハードに参加するために、シリアに渡ったのだ。

    エルジズーリはひどく取り乱し、マフムードも奪われるのではと怯えた。「スーダンにいる夫に電話をし、こう言いました。『マフムードをスーダンに連れて帰りたい。ここにいるのが恐ろしいの』」と彼女は言う。「夫には『シングルマザーだから、助けてほしいの』と何度も頼みました。彼にはこう言いました。『助けが必要なの、一緒にモスクへは行けないわ。男の人と一緒に行っても、私は入れない。私は中に入る必要があるの。イマームが息子に何を言っているのか、確認する必要があるの。お願いだから助けて』と」

    彼女は、休暇でスーダンへ戻るため、マフムードを説得することに成功したものの、到着すると、彼女の不安は大きくなった。「2、3週間が経つと、『行かないと。ジハードをしなければならないんだ』というので、心配になりました」

    彼を止める決心をしたエルジズーリは、息子のパスポートを隠し、在スーダン英国大使館に持ち込んで、政府当局者と話をした。「シャフィについて全て話しました。すると『お子さんのことは把握しています』と言われました。マフムードは幼い子で、彼が出て行ってしまうのが怖いんです。だから、彼のパスポートを持っているんです、と私は話しました。すると『だめです。彼にはパスポートを渡さなければいけません...… 彼はイギリス国籍で、現在17歳なので、彼のパスポートを持っておく権限はあなたにはありません』と言われたのです」

    エルジズーリは当局者にこう言ったという。「聞いてください、イギリス国籍だなんて言わないでください。彼は私の息子です。イギリス人である前に、彼は私の息子であり、ここの出身なんです。彼の保護を手伝ってくれないのなら、私が彼を守ります」。彼女は自らパスポートを没収したものの、1ヶ月も経たないうちに、マフムードはパスポートを紛失したことを伝えに大使館を再び訪れ、大使館から新しいものを発行してもらったことを母に告げた。「なぜ?」と母は尋ねた。「どうして大使館はそんなことをするの?」

    そして、マフムードは行方をくらませた。3週間かけて、家族は現地の病院や警察を回り、彼が兄に加わるために逃げたのではないのだと信じようと必死になりながら、彼を捜索した。21日が経過し、エルジズーリは恐怖に震え上がるようなメールを、カナダにいるエルシャイクの妻から受け取った。メールには、妻が夫とその前日に話をしたと書かれてあり、「マフムードも自分のところに到着したと告げられた」と綴られていた。

    17歳の彼は、スーダンのジハード主義者のネットワークから航空券を買う資金を調達し、新しいパスポートを使ってトルコへ飛んだ。そこから彼は国境を越えてシリアに入り、兄を見つけた。エルジズーリによると、エルシャイクは弟が戦闘地域にまで自分を追ってやって来たことに怒っていたそうだが、マフムードには彼と一緒に戦う決心ができていた。

    昨年、エルジズーリは刑務所にいるハーリドから電話を受け、最も恐れていた言葉を耳にした。マフムードが死んだのだ。エルシャイクはハーリドの妻に電話をし、彼女が兄に電話をして、一番下の子がイラクでISのために戦って殺されたことを家族に伝えたのだった。エルジズーリがこの知らせを聞いた時の瞬間を思い出した時、彼女の涙は止まらなくなった。彼女は記者の手を取り、片手を、そして両方の手を添え、しっかりと握りしめると、涙が頬を流れ落ちた。指の爪は一部が明るいピンク色で塗られていたが、塗料のほとんどは剥がれ落ちていた。彼女はリビングで取り乱したことに当惑し、「マフムードが死ぬ前に来ていただければ、別人のような姿を見ていただけたのに」と、すすり泣きながら話した。

    「マフムードはここでは被害者なんです」と彼女の友人のブルジスは言う。「彼は、シャフィがあんな風になってしまったがために、過激化しただけなんです」

    一番下の息子が死んだことを知った後、エルジズーリは、息子たちをシリアに送り込んだと非難する過激派イマームのシバイを見つけ出し、彼に立ち向かったという。「彼の顔を叩きました」と彼女は言う。「私はこう言いました。『私の子どもたちに一体何てことをしてくれたの?』と」。

    彼女は今、長男が収監中で、一番下の子は死亡し、真ん中の子はアメリカとヨーロッパの諜報機関の標的にされ、家族が誰もいない中で生活を送っている。家にはできるだけ多くの友人を招いている。こうすることで、孤独感が少しは解消されるのだという。

    様々なことがあったが、エルシャイクは家族と連絡を取り続けた。彼はシリア人女性を2人目の妻にし、彼女は2年前に娘を出産し、彼の母にちなんでマハと名付けられた。黒髪で、丸い目をし、ピンク色の頬で笑っている女の赤ちゃんの写真は、エルジズーリの携帯の画面に設定され、彼女は控えめに自慢する様子でその写真を見せた。エチオピア人の妻もカナダからシリアにいる彼のところへ加わり、3ヶ月前に息子を出産した。男の子はマフムードと名付けられた。

    BuzzFeed Newsが取材を申し込んだ時、エルジズーリは息子が「ビートルズ」のメンバーとして特定されたことには気付いていなかった。しかし、ISで活動していることは把握していた。彼女は、このテロ集団は修理工としての彼のスキルが欲しかっただけではないのかと考え、いつか洗脳が解けて家に戻る日が来ることを願うようにした。

    「彼が心を入れ替えることを願っています。そう思いたいです。多くの青年が逃げていると聞きますが...…シャフィにもその1人になってほしいです」

    様々な諜報機関が彼女の息子を処刑集団の一員だと特定したことを聞かされると、彼女は頭を下に向けて両手で抱え込み、叫びながら椅子にのけぞった。「違う、違う、シャフィじゃない」と彼女は涙を流し、友人のブリジスが隣の部屋から走ってやって来た。彼女はこらえきれないくらいにすすり泣き、時々シャフィの名前を交えながらアラビア語で早口で話し、喉を切るようなジェスチャーをした。ブリジスは肩に腕を回し、こう叫んだ。「あなたは彼の母。でも彼は大の大人よ。これはあなたがやったことじゃないわ」

    その後、すすり泣きが落ち着くと、彼女は首を振って言った。「あの子はもう私の子ではない。あれは私が育てた子じゃない」

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