自立していて勇敢。なぜディズニーは魅力的な女性像を生み出せるのか

    華奢すぎたヒロインをリアルに変えた生身の女性たち

    今月日本でも公開されたディズニー映画『モアナと伝説の海』。世界的なヒットとなっている「モアナ」をはじめ、「アナと雪の女王」「塔の上のラプンツェル」など、近年のディズニー映画は魅力的な女性キャラクターが活躍する作品が目立つ。なぜディズニーは、見る人たちを夢中にさせるキャラを生み出せるのか。その背景には、女性クリエイターの活躍があった。

    2016年の夏、『モアナと伝説の海』の主役となるポリネシアの少女、モアナのイメージが公開された。そのとき、すぐに多くの人の目にとまったのが、ヒロインのがっしりした現実的な体つきだ。「意図的な試みだった。ひとつには、それまでとは違うヒロインにしたかったからだ」。共同監督のジョン・マスカーは、7月にBuzzFeed Newsにそう語っている。「アクションヒーローのようにしたかった」

    マスカー共同監督はモアナの筋肉質な体を、過去のヒロインとの違いの象徴ととらえているが、一部のディズニーファンにすれば、その発言はどこか聞き覚えのあるものかもしれない。

    「私が求めたのは、リアルな少女だ」。『メリダとおそろしの森』の脚本と監督を務めたブレンダ・チャップマンは、弓矢を操る主人公メリダについて、2012年に「ニューヨーク・タイムズ」にそう語っている。

    「腕や脚やウエストが細くて華奢すぎて、現実にはとうてい生きられないような少女ではなく、たくましい女の子にしたかった」。『メリダとおそろしの森』は、おとぎ話の「お決まりの設定」を引っくり返すものだった、とチャップマン監督は語っている。

    14年前、『ムーラン』のヒロインの声を務めたミンナ・ウェンも、ムーランについて、「シンデレラのアンチテーゼだ。長いドレスではなく、よろいをまとっている」と「USAトゥデイ」に語った。

    ディズニー映画のヒロインを語るスタッフたちが、今作は過去のヒロイン像を覆すものだと主張するのは、1989年の『リトル・マーメイド』の反抗心あふれるヒロイン、アリエルにまでさかのぼる、一種の伝統といえるだろう。

    『モアナと伝説の海』と『リトル・マーメイド』の両方でマスカーとともに監督を務めたロン・クレメンツは1990年、「スクリップス・ハワード・ニュース・サービス」に対して、アリエルの赤い髪に衝撃を受けた人たちもいたが、「我々はそれが重要だと感じていた」と語っている。「その(髪の色の)おかげで彼女は個性的になった」。

    「今度のプリンセスはこれまでとは違う」という主張は、「動物の仲間」や「理解のない親」に劣らず、ディズニープリンセスを形づくるうえでほとんど不可欠な要素になっているのだ。

    だが、ムーランの筋肉質な美しさや、モアナのがっしりしたプロポーションは、その舞台裏にいた女性たちなくしては、スクリーンに登場していなかったかもしれない。彼女たちこそが、そうしたディズニープリンセスたちを形づくったのだ。

    「この映画に関わった女性たち、プロデューサーやそのほか(の人たち)が……ずっと言いつづけていた。『ハチみたいに細いウエストの女性にはしないで。もっとリアルな体形にしよう、強い風が吹いても飛ばされたりしない雰囲気を出そう』ってね」。2016年7月に行われたBuzzFeed Newsのインタビューのなかで、マスカー共同監督はモアナについてそう語っている

    もちろん、正確にいえば、王道から完全に脱却したプリンセスはひとりもいない。だが、アリエル以降のプリンセスたちはみな、それぞれがルールを破ってきた。そして、その変化を強力に推進し、より賢く勇敢で自立したキャラクターを造形してきたのは、ディズニー映画に関わる女性たちだった。

    プリンセス映画は女の子だけに訴えるものなのか、という議論がディズニー内部で交わされる一方で、製作スタジオでは女性たちが立ち上がり、そもそもプリンセスとは何か?という本質に挑んだ。そして、21世紀の女性像に合わせてプリンセスのイメージを作り変えていった。

    1966年のウォルト・ディズニーの死去から1980年代後半にかけて、ディズニーのアニメーション部門はスランプに陥っていた。同時に、1920年代や1930年代に雇われた、「ナイン・オールド・メン」と呼ばれる影響力のあるアニメーターたちが引退したり、この世を去ったりしたのに伴い、新たなアーティストたちがそのあとを継ぎ(とはいえ、まだほとんどは白人男性だったが)、新鮮なアプローチで女性キャラクターを造形するようになった。

    1980年代にはまだ、ディズニーのアニメーション分野で働く女性はごくわずかで、大きな変化を起こすだけの力はなかった。ディズニーでは80年代のほとんどを通じて、アニメーションにする場面の絵をおこすストーリー・アーティストのなかに、女性はひとりもいなかった。人員不足の問題もあった。

    1979年、ディズニーを抜けたドン・ブルースが新しい製作会社「ドン・ブルース・プロダクションズ」を立ち上げ、ディズニーの女性アーティスト7人がそちらに流れていった。離反者のひとりだったローナ・クックによれば、当時のディズニーでは、女性を積極的に重用する人は少なく、ブルースはその数少ないひとりだったという。

    だが、1987年の『リトル・マーメイド』の製作初期に、ディズニーは男女均等に向けて小さな一歩を踏み出した。そしてそれは、興行収入で大きな利益をもたらす一歩だった。美術学校を出たばかりのチャップマンが、この作品のスタッフとして雇われたのだ。当初は、見習いストーリー・アーティストとしての採用だった。採用されたのは「きみが女性だからだ」と、人事担当の男性に尊大な口調で言われたことを、チャップマンは覚えている。

    彼女はやがて、ディズニーのストーリー部門のリーダーに成長する。大ヒット映画『ライオン・キング』ではストーリー責任者を務め、ついには『メリダとおそろしの森』の監督と脚本を手がけるまでになった。

    『リトル・マーメイド』のクレジットに名前が登場する7人のストーリー・アーティストのうち、女性はチャップマンひとりしかいなかった。いちばんの新入りであるチャップマンに割り当てられた仕事は、アリエルが歌う「パート・オブ・ユア・ワールド」のリプライズ(別歌詞)の場面を描くことだった。アリエルが浜辺でエリック王子を見つめながら歌うシーンだ。恋に落ちた少女の背後で波が砕けるそのシーンは、この映画を象徴する、もっとも有名な場面のひとつになっている。

    「ナイン・オールド・メンが描いていたら、アリエルはまったく違うキャラクターになっていただろう」と語るのは、アリエルの敵役にあたる「海の魔女アースラ」のアニメーションを担当したキャシー・ジエリンスキだ。

    人魚姫のアリエルは頑固な少女で、海の世界を去って人間の王子を追いかける。白雪姫やシンデレラ、『眠れる森の美女』のオーロラ姫のような、非常にものやわらかな過去のプリンセスたちとは対照的に、貝殻のビキニをつけた赤い髪のプリンセスは、好奇心と反抗心が持ち味で、父親に逆らって行動を起こす。

    『リトル・マーメイド』のストーリー・アーティストを務めたエド・ゴンバートは次のように語っている。「ウォルトのころとは時代が違う。アリエルを違う形で描くのは、自然な直感だったと思う」

    ジェームズ・B・スチュワートが『Disney War』で伝えているところによれば、ディズニーの上層部は、『リトル・マーメイド』が幼い少女にしか受け入れられないのではないかと心配していたという。その心配をよそに、『リトル・マーメイド』は1989年の映画のなかでもトップ級の興行収入を叩き出し、音楽関連の2部門でアカデミー賞を獲得した。だいたいにおいて、勝利を収めたといえる。

    だが、「ニューヨーク・タイムズ」は、「アリエルが、王子の存在なくしては完結しないキャラクターだという理由で、一部の女性に批判されていた」というマスカー共同監督の発言を伝えている。

    また、「ロサンゼルス・タイムズ」は、南カリフォルニア大学での上映会で、共同監督を務めたクレメンツとマスカーが守勢に立たされる場面があったと伝えている。この件について両監督の話は聞けなかったが、観客のひとりが製作畑での女性のチャンスの少なさについて、両監督に質問を投げかけたのだという。

    続くプリンセス映画『美女と野獣』で、ディズニーは脚本にリンダ・ウールバートンを起用した。『美女と野獣』は、「本の虫のヒロイン」と「野獣に姿を変えられた王子」のロマンスを描いた、情感豊かなミュージカル映画だ。作中、王子はヒロインを人質にとり、城に閉じこめる。「上層部から、(アリエルに対して出ていた)非難の声を鎮めてほしいと指示されたことはなかった」。現在もディズニーでトップ脚本家として活躍するウールバートンは、1992年の『美女と野獣』公開時に「ロサンゼルス・タイムズ」にそう語っている。「ただ、おそらくスタジオ側は、私が女性なので、性差別主義的なキャラクターは書かないと信じていたのだと思う」

    ウールバートンは、チャップマンや、製作総指揮も務めた作詞家のハワード・アシュマンとともに、ベルを多面的なヒロインに仕上げていった。ウールバートンの構想では、ジェンダーをめぐる問題にそれまで以上に敏感になることが求められた。

    当時ディズニーに在籍していたが『美女と野獣』には関わっていなかったジエリンスキの記憶によれば、ある男性ストーリー・アーティストが、ベルが囚われの生活を受け入れる場面を盛りこむよう求めたという。「きみがこの状況に置かれたら、泣くと思う?」と訊かれたことを、ジエリンスキは覚えている(泣くけれど、泣きわめいたりはしない、というのがジエリンスキの答えだった)。

    チャップマンは、ベルが野獣に包帯をあて、野獣の残忍さに挑むシーンを描いてみせた。「かんしゃくを抑えることを覚えなさい!」と怒りまじりにベルに言われ、野獣が黙りこむシーンだ。チャップマンがこの衝突の場面を描いた絵コンテを見せると、ストーリーチームに加わっていた男性10人は、その場面に心から賛意を表したという。

    とはいえ、境界を押し広げる試みのすべてがスムーズに進んだわけではない。「(ベルの)セリフは、1行残らずバトルだった」とウールバートンは2016年5月に「エンターテイメント・ウィークリー」に語っている。意地悪な継母の召使いとしての運命を明るく受け入れたシンデレラとは違い、ベルは、自分を幽閉している相手だろうと、面と向かって怒鳴りつける。「ヒロインは犠牲者だという考え方がそもそも刷りこみだということを、理解しないといけない」とウールバートンは言う。

    「60年代と70年代の女性解放運動を経験した私からすれば、ベルのような賢くて魅力的な若い女性が、ただ王子さまが来るのを待っているだけなんて、絶対に受け入れられないことだった。黙って苦しみに耐え、汚れのない薔薇だけを求める女性? さんざんひどいことをされても、なお優しい心を失わない女性? そんなことはありえなかった」

    『美女と野獣』のビジュアル開発に携わったスー・ニコルズは、BuzzFeed Newsに宛てたメールのなかで、ベルの相談役に当たる女性を登場させるというアイデアを出したのは自分だったと語っている。最終的に、その相談相手はポット夫人という形をとることになった。若いベルが野獣と「恋に落ちてもいいのだと心を決める」には、女性の後押しが必要だった、とニコルズは説明する。

    ドン・ブルース・プロダクションズでの数年を経てディズニーに戻ったローナ・クックは、みずから撮影した動画のなかで、最後のシーンのベルをアニメーションにしたときのことに触れている。人の姿に戻った野獣を、ベルがためらいがちにやさしく撫でる場面だ。ベルのアニメーションを担当した7人編成のチーム中、唯一の女性だったクックは、「その女性らしいフォルム」を描くのは簡単だったと語っている。

    「ベルはフェミニストだ」と、ウールバートンは「ロサンゼルス・タイムズ」に明言している。1992年当時としては、かなり大胆な発言だ。「1990年代の女性」を求めていた、とウールバートンは説明している。ベルは飽くなき読書家で、現在の「田舎での暮らし」以上のものを夢見ている。

    悪役のガストンは粗野なミソジニスト(女性蔑視者)で、ベルの拒絶を無視して恋愛関係を求める。『美女と野獣』がラブストーリーであるのはたしかだが、ベルは「誇りをもって独身を選ぶ女性」に近づく一歩だった。そして、そのベルの背中を押したのは、女性たちだった。

    次の2作品のディズニーのヒロイン、ジャスミンとポカホンタスは、やや問題になった。『アラジン』の主人公アラジンと、そのプリンセスのジャスミンは、アラブ系グループからの反発を招いた。とりわけ、主人公たちの肌を白くし、悪役の見た目や話し方を「異民族風」にした点が非難された。

    『アラジン』のストーリー・アーティスト、レベッカ・リーズの記憶によれば、この映画のスタッフとして、女性であれ男性であれアラブ系を採用しようという試みはなかったという。

    とはいえジャスミンは、自分の好きな相手を夫にしたいと望み、父王サルタンの意向に反抗する(なお、ジャスミンは主人公の恋人役で、主役でないにもかかわらずディズニー公式の「ディズニープリンセス」の一員となっている。また、公式のプリンセスたちは全員が王族というわけではないし、この記事に登場するプリンセスの中には、公式のプリンセスには含まれていない者もいる)。

    ジャスミンの父王は、アリエルの父よりもさらに娘を過保護に扱い、自由を認めない。そのいっぽうでジャスミンは、男性の社会的権利に対して不満をぶちまける。自分の結婚について言いあっていたアラジンと父王とジャファーに、ジャスミンはこう叫ぶ。「ふざけないで。あなたたち、立ち話で私の将来を決めるつもり? 私はご褒美の品じゃないわ」。

    『アラジン』のストーリー・アーティストとしてクレジットされた16人のうち、女性は2人だけだ。そのうちのひとりであるリーズは、この父と娘の衝突の裏にある心情を、庭園のシーンで視覚的に描き出した。

    父王が1羽の鳩を、鳥でいっぱいのケージに戻したあと、ジャスミンが衝動的にケージを開き、鳥の群れが広い世界に向かって飛び去るのを見つめるシーンだ。「私のアイデアだった。彼女が自由を求めていることを、うまく表現できたのではないかと思う」とリーズはBuzzFeed Newsに語っている。数々の欠点はあるとはいえ、『アラジン』で、自分の運命を自分で決め、ジーニーのように「自由」を求める女性が描かれているのはたしかだ。

    ニコルズも、『アラジン』に関わった2人の女性ストーリー・アーティストのひとりだ。彼女が描いたのは、ジャスミンが自分の身を守るためにジャファーを誘惑するシーンだ。ジャファーはジーニーに対して、ジャファーを好きにさせる魔法をジャスミンにかけるよう命じる。ジャスミンはジャファーの気をそらすために、魔法にかかったふりをする。

    即興の歌でジャファーの歯の「かわいい小さな隙間」を誉めて注意を引き、ジャスミンを助け出そうとしているアラジンに気づかせまいとするのだ。「頭のいい女性だ」とリーズは言う。「自分のするべきことを知っている」。最終的にジャスミンを救うのは「王子さま」だが、それも彼女の助けがあってこそだ。

    『ポカホンタス』では『アラジン』よりもさらにはっきりと、しきたりに逆らう有能で賢い女性が描かれている。17世紀に生きるヒロインのポカホンタスは、入植者ジョン・スミスと恋に落ち、処刑されようとしていた彼を救い、その過程で武力による衝突も食い止める。

    とはいえ、『ポカホンタス』の物語は、ステレオタイプと歴史的な歪みを通して語られている。この映画の相談役を務めたパウアタン族のシャーリー・「リトル・ダブ」・カスタロー・マゴーワンが、『ポカホンタス』に関して自分とは関係がないと言ったのは有名な話だ。

    「私たち部族は懸念を抱いている。我々の物語がすでに大きく改変されてしまっているからだ」。マゴーワンは1995年に「ロサンゼルス・タイムズ」にそう語り、製作側に騙されていたと訴えた。この映画のクレジットに名前が出たストーリー・アーティストはすべて男性で、ネイティブ・アメリカンはひとりもいない。

    また、メインキャラクターのアニメーションを担当した17人のチームのうち、女性はわずかひとりだった。とはいえ、クリンナップ担当のスタッフは、圧倒的に女性が多かった。クリンナップとはラフ画をアニメーションにする作業で、地味だが必要不可欠な仕事だ。

    『ポカホンタス』のクリンナップで主要アシスタントを務めたエミリー・ジュリアーノは、「(アニメーターの)最高のアートワークを損なわないようにしながら、さらに磨きをかける仕事」と説明する。クリンナップでは、多くのミスが見つかる。

    ジュリアーノが特によく覚えているのが、ポカホンタスが呼吸するシーンを手直ししたことだ。ポカホンタスが息を吸いこむのに合わせて、その豊かな胸も盛り上がるが、そのあとも元の位置に下がらずに、盛り上がったままになっていたのだ。クリンナップのスタッフは、ポカホンタスの胸が呼吸と一緒にしっかり動くように修正した。

    植民地化に関する有害な神話に縛られているとはいえ、『ポカホンタス』が注目に値する作品であることに変わりはない。というのも、ディズニーのプリンセス映画としては初めて、結婚式のない結末を迎えているからだ。この映画のエンディングには、結婚式も、それを予感させるものもない。

    ポカホンタスは、恋人よりも自分の属するコミュニティを選ぶ。負傷したジョン・スミスに、一緒にヨーロッパへ来てほしいと乞われたポカホンタスは、その申し出を断る。自分の人生から去っていく恋人の船を見送るポカホンタスの姿で、映画は幕を閉じる。

    人種表現をめぐる過去の失敗から教訓を得たディズニーは、1998年の『ムーラン』では、それまでとは違う的確な選択をした。『ムーラン』は、父のかわりに男装で戦地へ赴く少女を描いた映画だ。

    プロデューサーのパム・コーツがBuzzFeed Newsに語ったところによれば、ディズニーは、作品で描かれる民族に属するスタッフを採用するよう努めていたという。とりわけ、キャラクターデザイン担当のチェン・イーチャンと脚本担当のリタ・シャオの存在により、製作陣は充実したものになった。

    この映画でもビジュアル面を担当したニコルズは、メールで次のように語っている。「ムーランのビジュアル開発を始めるころには、観客の感情を害することがないように、デザイン的に民族を明確にするよう求められていた」

    ビジュアル開発チームの一員だったキャロライン・フーは、女性らしさとかわいらしさを持つと同時に、男性の兵士としても通用するキャラクターをデザインするのは難しかったと語っている。「男物のよろいを着なければいけない」とフーはムーランについて語っている。「男性の世界で生きることを余儀なくされた少女。だから、女性らしいキャラクターではない。男性として行動しながら女性らしさを保つには、どうすればいいだろう?」

    フーによれば、その矛盾とも思える点のせいで、ムーランはのちに、ディズニープリンセスの商品化で苦戦することになったという。

    ムーランは映画の大部分でよろいを着ているが、ムーランの人形はたいてい、よろいではなく女性らしい服装で売られている。「ムーランは、いわゆる女の子的なキャラではない。おおまかに言えば、その点がディズニーとしては一番やっかいな問題だったのだと思う」とフーは言う。「(ディズニープリンセスの)商品を見ても、ムーランはほかの『本物の』プリンセスに比べると、あまり注目されていない」

    ほかのプリンセスたちを「本物」たらしめている大きな要素が、ロマンスだ。だが、ムーランとシャンの関係は、あえて控えめに扱われている。結婚のプロットは製作の初期段階でカットされた、とコーツは語っている。「ムーランを結婚させるには、故郷に帰ってから、その道筋をつけなければいけない。落ち着いた平凡な暮らしが必要だ。それは、この映画で求められている終わり方ではない」とコーツは言う。「そういう物語ではないのだから」

    当時のコーツは、女性のストーリー・アーティストを見つけるのに苦労していた。ローナ・クックがプロダクションを去ったあと、残っていたストーリー・アーティストはすべて男性だった。「女性の考え方や服装、体形についてあれこれ話す男性たちと同じ部屋で、かなりの時間をすごした」とコーツはBuzzFeed Newsに語っている。

    特に衝撃を受けたのが、あるシーンの製作中のできごとだ。完成版の映画では、ムーランが女性だと知られてしまうのは、医師の治療を受けたことがきっかけだった。治療の場面はスクリーンには登場しない。ムーランが裸になり秘密が暴かれる瞬間が、衆目にさらされることはない。

    だが、ある男性ストーリー・アーティストが描いた初期のスケッチでは、「(部隊)全員の目前で、女性だと暴かれていた――とても冒涜的だと感じた」とコーツは語っている。1998年に「ニューズウィーク」に語ったところによれば、その初期のバージョンは、上官が公衆の面前でムーランの服を引き裂くというものだった。 「それが女性に対する冒涜だということが、あの男性たちにはわからなかったのだ」と当時のコーツは語っている。コーツのおかげで、完成版では、ムーランの正体はおおむね人目に触れずに暴かれている。



    2009年と2010年に公開された『プリンセスと魔法のキス』と『塔の上のラプンツェル』は、人種面でもジェンダー面でも問題にぶつかった。どちらの作品も、脚本のクレジットに女性の名前は出てこない。

    『プリンセスと魔法のキス』のティアナはディズニー初の黒人のプリンセスだが、映画の大部分では、緑色のカエルの姿をしている。『プリンセスと魔法のキス』の脚本家とプロデューサーと監督は、ほぼ全員が白人男性で、黒人女性はひとりもいない。人種表現という点では、この映画はとりたてて進歩的なものではない。

    とはいえ、監督と脚本を手がけたマスカーは、2009年の「ソルトレイク・トリビューン」の記事のなかで、ティアナについてこう語っている。「注目すべきは、ティアナがキャリアを持っているという点だ。(中略)彼女が目指しているのは、恋人を手に入れることだけではない」。ティアナの光り輝く夢を表現しているのが、劇中歌の「夢まであとすこし」だ。

    ニコルズがデザインを手がけたこの曲は、ディズニー映画に欠かせない「アイ・ウォント・ソング」(主人公が夢を語る歌)だが、ティアナの意欲をよく伝えている。そこで描かれているティアナの望みは、自分のレストランを開くことであり、夫を手に入れることではない。

    想像のなかで厨房をさっそうと歩き、男性従業員のミスを陽気に直しながら、ティアナは「夢は叶う/でも自分の力で叶えないと/すべて自分しだい」と歌う。たしかに、『プリンセスと魔法のキス』にもロマンスは登場する。だが、自分のキャリアを深く愛する女性にとって、「いつまでも幸せな」人生がどんなものなのか、それを垣間見せてくれる映画でもあった。

    最終的に、『プリンセスと魔法のキス』の全世界での総収入は、2億6700万ドルだった。ディズニーにすれば、期待外れの興行収入だ。平凡な興行収入が続くことをおそれたディズニーは、次作の『塔の上のラプンツェル』では、男性の主役級キャラクター、フリンの役割を広げた。

    また、当初の英語タイトルはヒロインの名前を冠した『Rapunzel』だったが、『Tangled』に変更した。女の子向けの印象を薄め、男の子に敬遠されないようにするためだ。

    ディズニーのプリンセス映画は、女の子以外の観客にもアピールできるのだろうか。その疑問について、ディズニー・アニメーション・スタジオのエドウィン・キャットマル社長は、2010年の「シカゴ・トリビューン」の記事のなかで、『塔の上のラプンツェル』のタイトル変更は必要なことだったと語っている。

    「実際にはそうではないのに、女の子向けのおとぎ話だと思う人がいるかもしれない」とキャットマル社長は述べている。「我々がつくりたいのは、あらゆる人に喜ばれ、愛される映画だ」

    フリンは明らかに主人公ではないが、『塔の上のラプンツェル』では、映画の最初と最後にフリンの語りが配されている。「ニューヨーク・タイムズ」の映画評論家A・O・スコットは、「プリンセスの物語を、四角いあごの恋人役が一時的に乗っとっている。商業的な計算が露骨に見える」と指摘している。「不安を抱えた観客の男の子たちに向けた、この映画はそれほど女の子向けではない、というメッセージだ」



    だが、2012年の『メリダとおそろしの森』で、ディズニープリンセスはついに王子さまを捨て去った。ストーリーと監督をチャップマンが担当したこの作品では、主人公のメリダは、親に決められた結婚を拒む。その点は、それまでの何人かのディズニープリンセスと同じだ。

    だが、メリダが迎えるハッピーエンドは、ジャスミンやムーランのように別の夫候補を見つけ、最後には親もそれを受け入れる、というものではない。メリダは母親と和解するいっぽうで、求婚者全員をはねつけるのだ。

    『メリダとおそろしの森』では、「女だからこうあるべき」という考え方が徹底的に破られている。映画の出だしからして、まさにそうだ。冒頭のシーンでは、弓を好むメリダの気質が、母親の考える「レディ」にそぐわないことが描かれている。メリダが親の決めた結婚をぶちこわすために、弓の競技会に乱入する場面も同様だ。メリダは、優美だが動きにくいドレスの袖と背中を引き裂き、夫候補をひとり残らず打ち負かすのだ。

    「とにかく、女の子らしいプリンセスという型枠を壊したかった」とチャップマンはBuzzFeed Newsに語っている。「私が求めていたのは、みずから闘い、ノーと言うプリンセス。自分の意見を主張できるという揺るがぬ自信を持ち、自分らしくあるために闘い、けれど欠点もあるプリンセスにしたかった」

    チャップマンの指揮のもと、ピクサーの技術チームは、髪のアニメーションに関する新しい技法を開発し、その持ち主に劣らず手に負えないメリダの赤い巻き毛を生み出した。また、それまでのおもなプリンセスたちとは違い、メリダともっとも近しい関係にあるのは母親だ。父親が登場するのは、ほとんどがコミカルな息抜きの場面だ。「母と娘の物語にしたかった」とチャップマンは言う。「アリエルもベルも、物語に母親が登場しなかった。(彼女たちの母親は)死んでいたから」

    道を切り拓いたチャップマンに続いたのが、ジェニファー・リーだ。リーは『アナと雪の女王』の脚本と監督を手がけ、ディズニーのアニメーション映画では2人目の女性監督となった。2013年の『アナと雪の女王』は、姉妹2人の関係をめぐる物語で、全世界で驚異的な興行収入を叩き出した。

    ディズニーは当初、エルサとアナの姉妹をマーケティング素材としてあまり評価していなかった。だが、この映画を大ヒットに導いたのは、脇で描かれたどんな恋愛よりも輝いていた「姉妹の愛」だった。

    この映画で感情が最高潮に達するのは、アナが、疎遠になった姉のためにみずからを犠牲にする瞬間だ。アナは、自分の命を救ってくれるはずの「真実の愛のキス」のチャンスを捨て、エルサと残忍な悪役のあいだに身を投げ出し、そのせいでアナの体は氷に変わってしまう。だが意外なことに、必要なのは男性の愛ではなかった。エルサが凍りついた妹の体を抱きしめて泣きむせぶと、姉妹の真実の愛の抱擁の力で、アナにかかっていた魔法が解けるのだ。

    クリステン・アンダーソン=ロペスは、夫で同僚でもあるロバート・ロペスとともに、『アナと雪の女王』のオリジナル楽曲を作曲した。「ニューヨーク・タイムズ」の記事では、ヒット曲となった主題歌の「Let It Go~ありのままで~」について、「『恐れや恥をねじふせ、自分らしく、パワフルであれ』と呼びかける賛歌」だと語っている。

    この曲を聴いたことをきっかけに、リーは脚本の方向を変えた。それは、当初のストーリーから大きく離れる方向転換だった。スチュワートの『DisneyWar』によれば、製作初期段階の2003年時点では、『アナと雪の女王』は「おそろしいビッチ」(ある女性幹部の言葉だ)の物語だった。当時のタイトルは、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話と同じく『雪の女王』で、主人公は、求婚者を氷に変える女性。エルサは文字どおり「氷の心」を持つ、荒々しい女性になるはずだった。

    「Let It Go~ありのままで~」を聴いたあと、リーは脚本を書き直した。エルサを、強大な魔法の力にとらわれた、恐ろしいが欠点を抱えた普通の女性につくり変えたのだ。「メモを手に立ち上がり、『これはアナで、アナの旅の物語。それ以上でも、それ以下でもありません。これはエルサで、エルサの旅の物語なんです』と(製作スタッフに)伝えたこともあった」とリーは「スクリプトノーツ」のインタビューで振り返っている。「『それがこの映画のテーマで、だからこそ私はこの映画をつくりたいんです』と訴えた」

    そして今回、白人のプリンセスが続いたあとに、ディズニーは『モアナと伝説の海』を公開した。今回も表現面で慎重を期したディズニーは、マオリの血を引く脚本家で映画監督のタイカ・ワイティティを脚本担当に採用した(ただし、完成版の映画では脚本家としてクレジットされていない)。

    『リトル・マーメイド』や『アラジン』、『プリンセスと魔法のキス』で生じた表現上の問題を考えると、クレメンツとマスカーに監督を任せるのはリスクのようにも思えた。だが、両監督はこれまで以上に、製作の初期段階でポリネシア系の人の意見を聞き、製作チームに加える努力をした(とはいえ一部では、さまざまな先住民族の風習が でたらめに採り入れられていることに対する批判が出ている。先住民族に関する映画をつくるという行為に、植民地主義的な意味合いを見る意見もある)。

    注目すべきは、『モアナと伝説の海』にはラブストーリーがちらりとも出てこないことだ。賢くて力強い少女モアナは、故郷の島を救う冒険に乗り出す。モアナの体形は現実的で、女性的特徴は強調されていない。

    こうしたコンセプトはどれも、女性が手がけた過去のディズニーのプリンセス映画で重視されてきたものだ。ベルとティアナの知性と野心、ムーランとメリダの人間的な体つき、ポカホンタスのコミュニティ愛、そして程度の差こそあれ、『メリダとおそろしの森』と『アナと雪の女王』に見られるロマンスの拒絶。

    『モアナと伝説の海』のプロデューサーを務めたオスナット・シューラーがBuzzFeed Newsに語ったところによれば、製作のどの段階でも、ラブストーリーはいっさい存在しなかったという。「そんな余地はまったくなかった」と、シューラーは電話インタビューで語っている。

    さらに、モアナの性別も、ほとんど重要視されていない。将来のリーダーとしてのモアナの資格に、疑問が差しはさまれることはない。大海原での冒険を望むモアナに両親はおそれおののくが、それは単に危険だからで、女の子には危険だからというわけではない。シューラーによれば、初期の脚本には、モアナが性別をめぐる障壁に直面する場面があったという。だが、「すぐに、それはこの物語に求めるテーマではない、と考え直した」とシューラーは語っている。

    女性として初めてディズニー映画アニメーション分野の共同責任者を務めたエイミー・ローソン・スミードは、キャラクターの体形はこうあるべきという従来の概念に抵抗し、モアナの運動能力に重点を置いた。BuzzFeed Newsではスミードの話を聞くことはできなかったが、「デトロイト・フリー・プレス」に語っているところによれば、スミードはモアナの走り方について、「もっとスポーツ選手のように」「もっと自信たっぷりに」するようアニメーターたちに指示したという。モアナが巨大な半神半人マウイの耳をつかみ、「あなたは私のヒーローじゃない」と怒りまじりに言う場面では、モアナのたくましい二頭筋が収縮するのが見てとれる。

    2013年の『アナと雪の女王』でもなお、ディズニーのプリンセス映画は、結婚をめぐるなんらかの筋書きと、細いウエストから脱しきれていなかった。それを思えば、『モアナと伝説の海』は記念碑的な作品といえるだろう。

    そのいっぽうで、監督のクレメンツには、モアナを過去のディズニー映画のヒロインたちとは違うものとして位置づけたい衝動があるようだ。「我々はこの映画を、プリンセスの物語とは違う文化における、ヒーローの旅、おとなになる物語ととらえていた」とクレメンツは「タイム」に語っている。それは、決まり文句であるだけでなく、発言内容としても以前と比べて後退している。

    2013年に『アナと雪の女王』でアナの声を演じたクリステン・ベルは、不器用なアナについて、「アンチプリンセス的なプリンセス」と語っていた。さらに、「あまりに早口で、考えるまえに口が動いてしまう。優雅ではないけれど、とても大胆で、どんなときでも前向きな女の子」とも説明している。それまでの女性キャラクターたちは、あまりにもがっちりと型にはめられていたがゆえに、不器用さは破滅的行動と同じと見なされていた。

    最近のディズニー映画プリンセスたちは、それ以前のプリンセスを縛っていたあらゆることをはねつけてきた。だが、時を経るなかで変わったのはその点ではない。

    本当の変化は、アリエル以降のプリンセスが、以前よりもずっと人間らしく見えるようになったことにある。それはひとつには、プリンセスの製作に関わる生身の女性の数が増えたからだ。

    アリエル、ベル、ジャスミン、ポカホンタス、ムーラン、ティアナ、ラプンツェル、メリダ、アナ、エルサ、そしてモアナは、ひとりひとりが独自の個性を持っている。アンチプリンセスというものは存在しない。なぜなら、プリンセスになる方法はひとつではないからだ。そしてそれは、30年前から変わっていない。ほぼ30年の時を経て、舞台裏を支える女性たちの力で、ひとりひとりのキャラクターたちが、不完全だが、より深みのある人間性を獲得していったのだ。

    モアナの造形にあたり、体の動かし方をすぐに理解したのは女性たちだった、とシューラーは語っている。製作陣がモアナの動きを練りはじめたとき、「部屋にいる全員が立ち上がり、ポーズをとって見せることが何度かあった。真っ先に立ち上がるのは女性だったけれど。『ほら、これが戦士だよ』って」

    モアナは強く、賢く、勇敢で、個性的だ。それは、歴代のプリンセスの流れに逆らうものではない。むしろ、過去のプリンセスたちがいたからこそ、そしてさらなる高みを求めた女性たちがいたからこそ、実現したものなのだ。


    この記事は英語から翻訳されました。翻訳:梅田智世/ガリレオ、編集:中野満美子/BuzzFeed Japan