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【リオ五輪】錦織の96年前に銀メダル獲得 伝説のテニス選手・熊谷一弥とは

軟式テニスの技術で米国で活躍

リオ五輪テニス男子シングルスの3位決定戦で、日本の錦織圭がスペインのラファエル・ナダルを下し、悲願の銅メダルを獲得した。

日本テニス界の五輪メダルは、1920年アントワープ五輪で熊谷一弥が男子シングルスとダブルスで銀メダルを獲得して以来、96年ぶり。ちなみに熊谷は、日本にとって初の五輪メダリストだった。

錦織の前に世界の舞台で活躍した熊谷とは一体どんなプレイヤーだったのか。

軟式テニスの技術でアメリカで活躍

熊谷は1890年(明治23年)、福岡県大牟田市で生まれた。旧制宮崎中学では野球部の主将を務める一方、軟式テニスもプレーした。

慶應義塾大学に進学すると庭球部に所属。当時、日本のテニスは軟式テニスが主流だったが、慶應庭球部では1913年4月、世界へ挑戦するため日本で初めて硬式テニスに転向する。

熊谷は1914年1月、庭球部のチームメートとともにフィリピンに遠征。マニラで行われた大会ではシングルス準優勝を果たす。翌年の大会では当時アメリカ6位だったグリフィンにシングルスで勝利。その勢いに乗り、1916年には三神八四郎とともにアメリカへ遠征する。

熊谷は軟式テニスの握り方である「ウエスタングリップ」から繰り出される、鋭くドライブのかかった打球で強豪を撃破。アメリカのトップ選手だったジョンストンをも破る。この年には三上とともに全米選手権にも出場。日本で初めて四大大会に出場した選手となる。

世界トップ選手としてアントワープ大会へ参加

大学卒業後はニューヨークの三菱銀行支店に勤務し、アメリカを拠点にテニスプレイヤーとしても活躍する。

1918年の全米選手権では日本人として初めて準決勝まで進出。この記録は2014年に錦織が決勝に進出するまで96年間破られなかった。翌1919年には全米ランキング3位と、世界のトップ選手へと上り詰めた。

1920年、ベルギー・アントワープで開催された第9回五輪のテニス競技に柏尾誠一郎とともに出場。

「私は当時米国で活躍中であったので、各国選手の技能の内容も充分承知し、かつこれらに対抗する自信も充分あったので、優勝の可能性を抱いて参戦した」(東京オリンピック大会組織委員会会報「東京オリンピック」16号)

磨いた腕と世界の強豪と戦った自信を持って臨んだアントワープ大会。一緒に参加した他競技の日本人選手が海外勢に惨敗する様子を見たことで、ますます優勝せねばとの気持ちを強くした。

シングル、ダブルスでメダル獲得も喜ばず

熊谷は自信通り、相手に1セットも許さぬまま決勝まで進出する。だが大会ではシングルスとダブルスを同時並行で行っており、疲労は徐々に体に蓄積された。

シングルス決勝前夜。「元来無神経なほど寝つきがよい方なのだが、どうしたことか、ここに来て目が冴えて寝られないのだ」(「テニスを生涯の友として」熊谷一弥)と眠れないまま本番を迎える。

当日は雨でぬかるんだコートに尻もちを何度もつき、南アフリカのレイモンドに1-3で敗戦。優勝を逃す。柏尾とのダブルスでも決勝まで進出するも、こちらも破れてしまい準優勝止まり。この夜はさすがに泣いたという。

優勝だけを目指していたため、日本人として初となる2つのメダル獲得にも満足しなかった熊谷。授賞式では日本大使館の関係者に代理を頼み、自らメダルは受け取らなかった。

戦後も日本テニスに貢献

五輪後もアメリカで活躍。日本代表としてテニスの国別対抗戦「デビスカップ」にも出場し、1921年には決勝にも進出している。第2次世界大戦後は同カップに日本の監督として凱旋。タイムズ誌は「熊谷、ニューヨークに帰る」と報じた。

その後はテニスコーチのウィン・メースの著書「テニス技術」を翻訳するなど日本テニス界に貢献。1968年、故郷の大牟田市にて77歳で亡くなった。

錦織と熊谷はともにアメリカでテニスの技術を学び、世界有数の選手として五輪に挑んだ。日本人として全米オープン準決勝が96年ぶりならば、五輪でのメダル獲得も96年ぶり。錦織がナダルに勝利した翌日8月16日は熊谷の命日。後輩の活躍を、天国で微笑んでいることだろう。