「希望は子どもたち」 敵国へ嫁いだ日本女性

    国際結婚のパイオニアを描いた映画。娘たちが描いた本音とは。

    「アメリカ人の男性たちは たくましく 楽天的に見えました とても魅力的でしたね」

    「恋ではありませんでした 相手のことは 何も知らず 人生の賭けに出たんです」

    彼女たちは4〜5万人とされる戦争花嫁のひとり。戦争花嫁とは1947〜50年代に進駐軍の関係者と結婚し、海外に渡った日本人女性たちを指す。彼女たちの人生を娘たちが描いた映画「七転び八起き−アメリカへ渡った戦争花嫁物語」が2月4日、渋谷アップリンクで上映される。

    これらの言葉は、敦子・クラフトさん(86)と裕子・トールバートさん(85)が映画の冒頭で語る。

    戦争花嫁

    映画は26分の短編で、80代の母親3人を主人公にして、58〜63歳となった娘たち3人がメガホンを取った。

    描かれるのは、母親たちの信念と粘り強さ、母娘のありのままの姿だ。

    (左から)ルーシー、敦子・クラフトさん母娘、キャサリン、裕子・トールバートさん母娘、ケレン、恵美子・カズマウスキーさん母娘



    出会い

    敦子さんは津田塾大学を卒業。戦争が終わって男女が平等な社会になると希望にあふれ、就職した。だが、仕事はお茶汲みばかりだった。

    事務員生活を抜け出そうと、英字新聞に、日本語と英語を教えあうパートナーを募集する告知を女友達と出した。ひとりのアメリカ人技術者が応募してきた。夫となるアーノルドさん(92)だった。

    「何通か応募が届いて “あなたは この人にする?”と 1人ずつ振り分けました それが夫との出会いです 進展したのは私たちだけでした」

    裕子さんと夫ビルさん(故人)の出会いは路面電車だった。

    「ある日 路面電車で帰宅していたら 軍人が乗ってきました 家に帰るのかと尋ねられて “一緒に行っていい?”ときかれたので断りました それがビルという軍人との出会いだったんです

    ビルと結婚しなければ やせ細った貧しい日本男性の家に嫁ぐしかなかったでしょう 相手が誰であれ 私には渡米することが最善の道でした」

    想像外の現実

    ただ、希望を胸に渡米した女性たちを待ち受けていたのは、必ずしも幸せに満ちた生活ではなかった。

    ルーシー「義理の家族の反応はどうだった?」

    敦子「大反対されたわ」

    ルーシー「ユダヤ系じゃないから? 外国人だから?」
    敦子「一番の理由は非ユダヤ系だからよ」

    ルーシー「でも義理の母親や姉と写ってる写真は 和やかで楽しそうだわ」
    敦子「そう見せてたのよ 彼らは別の花嫁を望んでたわ」

    花嫁たちは、日本で想像していたようなハリウッド映画に描かれる華麗な生活、マッカーサー連合国軍最高司令官が喧伝した自由で平等な社会を想像していた。だが、現実のアメリカは違った。

    裕子さんが夫ビルさんの家を初めて訪れたときを振り返る。

    「“ご家族に初めて会う日だから 着物を着るわ”
    でもビルは猛反対しました
    他に礼服はないと私が言い張ると 彼は さらに激怒したんです

    その時 私は悟りました
    ビルとの結婚生活は 難しいものになるだろうと

    夫の家族は私をヒロコとは呼ばず “スージー”と名づけました
    親族にも着替えてほしいと言われて 私は2階に行き別の服を着たんです
    着物は長い間しまうことになりました」

    人種差別の壁

    当時は人種差別も根強かった。米調査会社ギャラップによると、1958年、「白人と有色人種の結婚」に94%が反対していた。敦子さんが振り返る。

    「一時期ルイジアナ州に住んでいました
    バスの座席が白人用と黒人用に分かれていて困りましたよ

    (ルーシー:真ん中に座ったの?)そうよ 移動しろと言われたら おとなしく従ったわ トラブルはご免だもの」

    希望は子どもたち

    冷戦に突入した1950年代。戦争に駆り出された男たちに代わって、いったんは社会進出した女性たちの職場は、戦地から戻った兵士たちに取り戻された。

    嘉悦大学の安冨成良・元教授(アメリカ史)は「保守的な考え方が復活し、女性たちは家庭に入って、よき妻、よき母となることが求められた」と話す。

    ルーシーさんも「子どもを立派に育てるのが、社会に認められる唯一の方法だった。弁護士や医者……子どもたちは次々と成功していきました」

    裕子さんが話す。

    「私にとって子どもたちは生きがいでした 人生そのものです 他には何も要りません 私の“希望”だもの」



    スタバで始まった映画づくり

    監督の一人で、敦子さんの長女ルーシー・クラフトさん(58)は東京在住のフリージャーナリスト。映画制作のきっかけは、2011年秋、ワシントンDCのスターバックスで交わした雑談だった。

    友人で写真家、ケレン・カズマウスキーさんと話していると、ワシントンポスト紙編集者キャサリン・トールバートさん(63)と戦争花嫁についてのプロジェクトを立ち上げるという。二人はそれぞれ恵美子さんと裕子さんの長女だ。「本じゃなくて、映像にしましょう」

    ジャーナリストのルーシーさんだが、これまで母親が昔話をすることは少なく、自らのルーツについて調べることはなかった。1982年に東京に移り、日本人と結婚。仕事と子育てに追われてきた。だが、子どもたちが成人し、仕事以外に自分の時間が持てるようになっていた。

    日本に帰国し、戦争花嫁を巡る日米両方の本や記事、文学作品を調べた。学者から資料を借りた。母親たちとのインタビューは各4時間。クラウドファンディングKickstarterで約3万8千ドル、寄付金9500ドルを集めた。

    ルーシーさんは話す。「家族の真実の歴史を知りたかった。白人男性の視点による歴史では『ただの主婦』で片付けられる女性の声を拾いたかった」。映画は、戦後の日米史の一面を浮き彫りにする。

    四面楚歌で生きる

    映画では描き切れなかった戦争花嫁が直面した困難についても、打ち明けてくれた。

    当時、日本の週刊誌や新聞は、戦争花嫁は「パンパン」(占領軍の兵士相手の売春婦)だと決めつけたり、「捨てられて死に追いやられる悲劇の花嫁」と書き立てたりした。「記者は男性ばかりだった。ハンサムで食糧が豊富だったアメリカ人男性への嫉妬心もあったと思います」とルーシーさん。

    安冨・元教授によると、日本女性が渡航する際は、身辺調査や政治思想が調べられた。売春婦がアメリカ人と結婚するのは不可能だったという。

    だが、日本の新聞はアメリカにも運ばれ、現地の日系コミュニティーにも偏見は広まった。強制収容所から解放されゼロから再出発した日系アメリカ人にとって、上品に着飾った戦争花嫁たちは嫉妬の対象になったという。

    ルーシーさんも幼い頃、ワシントンDC郊外の日系人の祭りに出かけたときの記憶がある。「ここはおまえのくるところではない」。日系の男性に言われた。「日本からも、現地の日系社会からも疎外されて、苦労した戦争花嫁は多い」と安冨・元教授は話す。

    堂々と戦争花嫁は名乗れない風潮があった。「戦争花嫁の作られたイメージを覆したい礼儀正しく、働き者で、清潔だった。日本人のイメージを高め、日米の架け橋をつくった人たちなんです」とルーシーさんはいう。

    映画を観た母敦子さんの感想はこうだった。

    「いいんじゃない。でも、ピューリッツァー賞はまだ?」

    ルーシーさんは、厳しい敦子さんらしいなと、思っている。