家族を殺されても日本兵105人に恩赦を下したフィリピン大統領 71年目の顕彰碑

    「人間同士の愛は、人間や国家の間において常に至高の定め」

    東京・日比谷公園に6月、ある顕彰碑が建立された。在日フィリピン大使館や日本政府、両国関係者の協力で建てられたこの碑は、エルピディオ・キリノ第6代大統領(1890-1956)の功績を讃えるものだ。


    皇居や省庁に近いこの公園の一角に、半世紀以上前のフィリピン大統領の顕彰碑が建てられたのは、なぜか。

    話は、日本軍がフィリピンに攻め入った第2次世界大戦にさかのぼる。

    妻子失ったマニラ市街戦

    1941年12月、真珠湾攻撃と時を合わせ、日本軍はアメリカの植民地だったフィリピンに上陸。米軍との激しい戦闘が始まった。

    当初は日本軍が優勢で米軍は撤退した。しかし、3年にわたる日本の占領期間を経て、太平洋での勢力を盛り返した米軍が逆襲。フィリピン中部レイテでの激戦を経て、首都マニラでの市街戦が始まった。

    1945年2月、キリノ大統領は当時まだ上院議員だった。キリノ大統領の親族らの証言によると、当時の状況は以下のとおりだ。

    マニラ市内にあったキリノ家は、米軍の砲撃で邸宅の一部が破壊され、一家は近所にある親族の家への避難を決めた。

    砲弾が飛び交う中で一家が避難を試みた直後、キリノ大統領の妻アリシアと長女が日本兵の銃弾に倒れた。妻に抱えられていた2歳の三女も亡くなった。

    キリノ大統領は、妻とは違うタイミングで避難したため、直接目撃することはなかった。しかし、この悲劇はキリノ大統領の心に癒されない深い傷を残した。

    このマニラ市街戦では、民間人約10万人が犠牲になったといわれる。「東洋の真珠」と称されていたマニラは廃墟と化した。

    キリノ大統領は、妻子を含む親族計9人を亡くした。

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    BC級戦犯105人への恩赦

    戦後、戦争指導者らがA級戦犯として、東京で裁かれたように、フィリピンでも日本軍に対する裁判が始まった。

    兵士らは「BC級戦犯」として、殺人や虐待などの罪に問われ、計137人が有罪となって処刑されたり、懲役刑を受けたりした。

    3年間の占領期間とその前後の戦闘で、日本軍に対するフィリピンの人達の怒りは非常に強かった。

    そんな中で、1948年にキリノ大統領が誕生。日本との国交回復の交渉に臨んだ。1953年、再選を目指していた大統領は大きな決断を下す。BC級戦犯への恩赦だ。

    マニラの刑務所に服役していた元日本兵ら105人を釈放し、日本へ帰国させた。

    恩赦決定の報を受け、日本では喜びの声が上がった。マニラからの船が横浜港に到着した際は、祖国に戻った元戦犯と遺族の再会が大きく報じられた。

    一方、反日感情は根強く残っていた。元戦犯らが刑務所からマニラの港へ移動する際には、地元の人たちからの襲撃を防ぐため、フィリピン軍が護衛したという。


    背景に政治情勢とキリスト教的な哲学

    なぜ、妻子や親族を失ったキリノ大統領は、自身の経験や反日世論にも関わらず、この決断を下せたのだろうか。

    「フィリピンBC級戦犯裁判」などの著書を持つ広島市立大学広島平和研究所の永井均教授は、恩赦決断の背景に「冷戦開始に伴い旧宗主国の米国が対日政策を転換した国際的な情勢があった」と指摘する。

    また、難航していた日本との賠償交渉を進展させ、再選を狙う大統領選の好材料にしたいという政治的な思惑も、判断に影響を与えたのではないか、と見る。

    だが、こうした政治的な理由だけではない。そこには、キリスト教徒であるキリノ大統領自身の政治哲学が影響したと分析する。

    「将来の両国の友好関係を見据え憎しみの連鎖を断ち切る」という思いだ。

    フィリピンと日本は、キリノ大統領が恩赦を決断した3年後の1956年に国交を回復した。

    国交回復60周年となる今年6月、恩赦が決まった当時、「国民感謝大会」が開かれた日比谷公園で顕彰碑の除幕式が行われた。式には日本政府関係者に加えて、キリノ大統領の孫ルビー・キリノ氏も参列した。


    時代を超えたメッセージ

    碑には、恩赦に関するキリノ大統領の言葉が刻まれている。

    私は、妻と3人の子供、5人の親族を日本人に殺された者として、彼らを赦すことになるとは思いも寄らなかった。

    私は、自分の子供や国民に、我々の友となり、我が国に末永く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を残さないために、これを行うのである。

    やはり、我々は隣国となる運命なのだ。

    私は、キリスト教国の長として、自らこのような決断をなし得たことを幸せに思う。

    愛する家族を日本軍に殺された。にも関わらず、未来を思い、キリスト教の教えに基づいて、憎しみを乗り越える。その苦悩と希望が滲み出している。

    永井教授は、前掲書でこう書いている。

    「日本人が赦し難きを赦すフィリピン国民の痛みに思いを致すことを願い、過去に対する日本側の責任意識の自覚を促そうとしたのではなかったか」

    フィリピンでは戦後、日本政府の支援で橋や道路などが作られた。今では対日感情も和らぎ、一般的に親日国とみられている。しかし、キリノ大統領の決断が、フィリピンとの友好改善の大きな礎となったことは、あまり知られていない。

    碑文は「人間同士の愛」を訴える言葉で締めくくられている。それは、未だ争いが絶えない現代の人々に対して、国境と時代を超えて語りかける。

    私を突き動かした善意の心が人類に対する信頼の証として、他者の心の琴線に触れることになれば本望である。

    人間同士の愛は、人間や国家の間において常に至高の定めであり、世界平和の礎となるものである。