韓国にルーツを持ち、障害者。そして女性。そんな、車椅子の詩人がいる。彼女は多くのことを隠してきた。自らの出自も、そしてなぜ障害を負ったのか、も。
「言葉」を壊したくないーー。自身のことを語り始めた彼女の思い、とは。前後編にわけてお伝えする。
「自分のルーツを隠すことって、なんて言えばいいのかな。まるで犯罪者のような気分。過去のあったことを人に隠して、接している感じ。罪悪感みたいなものを常に抱えたまま生活してるイメージなんですよ」
そうBuzzFeed Newsの取材に語る豆塚エリさん(26)は、ひとつひとつの言葉を丁寧に、編みこむように音にする。
日韓関係が悪化の一途を辿っていた7月。彼女は、自らの出自と過去に受けた差別経験をTwitterでカミングアウトした。
《私は日韓ハーフなんだけど、それを知ってる仲の良い友人がある日「あなたは祖国と日本のどっち味方なの?」と言い始めた。「今はっきりしとかないと今後あなたは日本にいられない」と》
《それからハーフであることを明かさないことにしてた。いつ石を投げられるか怖くて。だからほんとはね、声あげるの怖いのだけど、でも今言っておかないともっと怖いことになると思った》
「そんな人は友達じゃない」「国は関係ない」という励ましも多かった一方で、「反日」という言葉も浴びせられた。そうした反応があることは、予測できていた。それでも、語り始めた。
「私、ずっと我慢してきたんです。『なんで名前がカタカナなの?』って言われても『なんでかなぁ?』みたいな。ほかにも、障害者であることや、貧困、シングルマザーの世帯に育ったこと、高校を卒業できなかったこと、大学に行けなかったこと、就職ができなかったこと、父に虐待を受けてたことも、全部我慢していた。グッとこらえてきた」
「でも、我慢してたら何も変わらないし、いま言わないと本当にぺしゃんこにされると思ったんです。ヘイトスピーチを浴びるかもしれないけど、私はそういう発言に対して1個1個否定をしていこうと。それに、こんなに身の回りに差別があるんだよってことを可視化することも意味があるのかなって」
韓国をめぐり、SNSに溢れるヘイトスピーチやフェイクニュース、デマ、そして論戦の体を装った罵詈雑言のやり合いーー。
言葉の暴走を、当事者である彼女は正面から浴び続けてきた。だからこそ、正面から受け答えをしていこう、と思った。
「言葉が壊れていくっていうのが、本当に耐えられないから」
「日韓ハーフだから、日本人よりも下」
「日韓ハーフであることによって、日本人よりも下なんだって自分で思ってた」と彼女はいう。
母親は済州島出身の韓国人で、父親は日本人だった。よく韓国に旅行していた父に母が惚れ込んで交際がはじまり、愛媛県で暮らし始めた。
ふたりは焼肉屋を営んでいて、幼かった彼女はたびたび、済州島の実家に預けられていた。祖母は戦前、日本統治下で幼少期を過ごした世代で、日本語を少し話すことができたが、コミュニケーションは容易ではなかった。
「言葉が通じないもどかしさが、感覚として残っていて。よく覚えているのが、同じぐらいの年のいとこからいじめられていたこと。私が壊したおもちゃじゃないのに、私のせいにされたんです。おばあちゃんが半信半疑ながらも私に怒ってきて、違うのに言葉が通じない、みたいな……」
その後母親は離婚し、別の男性と再婚。大分県に引っ越した。
小学校のころになると、韓国に行くことはなくなった。覚えていた韓国語もそのうちに忘れ、アイデンティティは「日本人」になった。
母親は片言の日本語だったが、学校でいじめられることもなかった。「え、ハーフなん?」と言われるくらい。特に自分の出自を気にすることもなかった。
しかし、ネット上は徐々に「嫌韓」の空気に覆われるようになる。サッカー・日韓W杯が開かれた2002年ごろが、その転機とされている。
彼女のもとにも、そうした「言葉」は届き始めた。
「なんとなく嫌韓のようなコメントが目につくようになったのは、ネットが普及してからだと思います。高校生ぐらいから携帯を持ち始めて、掲示板とかに書かれているものを見て……。韓国ハーフであることを、積極的には言わなくなりました」
ずっと、死にたかった。
15歳のころ、母親が再び離婚した。生活は苦しかった。
母親は日本語の読み書きができず、就くことのできる仕事も飲食業に限られていた。なかなか昇進もできないため、低賃金から抜け出すことはできず、生活保護を頼る時期もあった。
申請書類を書いたのは、日本語のできる彼女だった。
国籍が韓国だったため、不動産もなかなか借りることができなかった。離婚をしてからは身寄りもなく、保証人が見つからないためだ。母親は、ネグレクト気味になり、家に帰っても食べ物がないこともあった。
「いつも、すごくイライラしてた。父の悪口を『日本人だから』って言い方でするんですよ。私は自分を否定されてるような気持ちがして。そんなに言うんだったら韓国に帰ればいいじゃないかって感じてしまうこともあった」
母親は、口癖のように言った。
「あなたは医者か弁護士になりなさい。そうじゃないと、私みたいになるよ」
自分は普通の日本人より下なんだ。人よりも何倍も努力して、みんなより優秀にならないと生きていけない。劣等感、そして焦りと不安が常につきまとっていて、「ずっと死にたかったんです」と彼女はいう。
「県内トップの進学校に入学したけれど、どんなに頑張っても成績が伸びない。ちゃんとした大人になれるのかずっと不安で。生活もうまくいってなくて、ギリギリだったんですよね」
「毎日、熱が出ればいいのにとか、病気になればいいのにって、思っていた。怪我でも良かった。そしたら、それを理由にして学校を休むことができるから。とにかく今この状態から離れたかった」
進学先を決めなければいけない、高校2年生の冬先に。彼女は、3階にあった自宅のベランダから飛び降りた。
「もう一生歩けない」
目がさめると、病院のベッドの上だった。体はほとんど、動かなくなっていた。
「死のうと思った時に、死ねるかどうか分からない高さだったんです。もし死ななかったら、もう1回頑張りなさいってことなんだろう。死んだらそれまでと、思っていて。まさか障害者になるとは、思っていなかったんですけど」
頚椎損傷による、手足の麻痺。医師からは、「もう一生歩けない」と言われた。絶望もしたが、気が楽になった、ところもあった。「肩書きを捨てられた」からだ。
「私はずっと肩書きを気にしていて、難関大学を目指し続けてきた。そうじゃないと自分を認められないから。でも、肩書きがなくてもちゃんと人間扱いしてもらえたんです。患者になると地位や肩書きが取り払われるんですね」
「みんな病衣を着ていて、学校の先生だろうがサラリーマンだろうが、認知症のおばあちゃんだろうが、みんな一緒。その中で人に好かれたり仲良くなるには、コミュニケーションする上で、人間性が一番重要視されるんですよね」
先生や親のように、大人たちは誰も「勉強をしなさい」とは言わなかった。必要なのは、リハビリだ。一番最初にできたことは、少しだけ起き上がって歯磨きをすること。
「手に歯ブラシをくくりつけてもらって、自分で磨いて。うがいは手伝ってもらって。そしたら看護師さんが、『良かったね。できたね』って言ってくれたんです。すごく達成感があって……。そういうところを、ひとつひとつ取り戻していったんです」
「子どもの時、母は私に構ってくれなかったので、なんでも自分でやってたんですよね。何かを一緒に手取り足取り教えてもらったことって、ほとんどなかったんじゃないかな。そこは自己肯定感に繋がる部分がありました」
心の窓はひらいていますか?
学校は退学になった。大学に行く必要も、なくなった。
まっさらになった彼女は病院のベッドのうえで、詩作をはじめた。
「私の手は、障害者になっても少し動いたので、ちょっとロマンチックだけど、この手で何かをしないといけないんだろうと。だから、書き続けるべきなんじゃないかって自分の中で勝手に思ったんです。ちょっと、恥ずかしいけど」
もともと、高校では文芸部に入っていた。文章を書くのも、本を読むのも、日本語も好きだった。そんな彼女が再び言葉を紡ぎ始めたきっかけは、尊敬していた先生からの手紙だった。
「病室の窓はひらいていますか?心の窓はひらいていますか?心の窓をあけましょう」
この言葉に感銘を受けたという彼女は、少しだけ動くようになった手で、パソコンを使い始めた。したためた詩を詩集にして、お返しをしようと思ったのだという。
日常動作をひとつひとつ取り戻しながら、詩作を繰り返す。そんなリハビリ生活は2年におよんだ。そして、彼女は詩人になった。
退院した1年後、20歳のころに彼女は「死せる神」という作品を書いている。16歳の冬にあった出来事を、振り返るかのような内容だ。
《生と死の境はあいまいで/手を伸ばせば/どこにでも存在する
およそ三年前/死の淵は甘く薫り/神は試すようにして/私に安寧をもたらそうとした/遠ざかる空と/耳を引き裂く音/そして/鈍い音をひとつ
陽にぬくめられたアスファルト/じわじわと競り上がる幸福感/絶望はまぶしく/美しい/わたしはうっとりと瞳を閉じる/名前を呼ばれて/頷いて/それから先は/淡くもやがかかったまま
あの日わたしの慈悲深き神は/いろんなものを奪い去り/罰と許しを与え/死んでいったのだ》
後編はこちら:「私は日韓ハーフなんだけど…」彼女は怖かった。だから、カミングアウトした
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昨日も、きょうも、これからも。ずっと付き合う「からだ」のことだから、みんなで悩みを分け合えたら、毎日がもっと楽しくなるかもしれない。
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