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14歳の帰り道、車でさらわれた。あれが「魂の殺人」だと、今の私は思わない

国際政治学者の三浦瑠麗さんが、過去に受けた性暴力や長女の死産の経験を綴った自伝を出版した。孤独だったこと、傷ついたこと、それが自分の人生にどんな意味を持ってきたのかということ。

女性は、女性に生まれたというだけで、さまざまな偏見や不遇にさらされることがある。さまざまな幸せな体験もある。

国際政治学者の三浦瑠麗さんが、近著『孤独の意味も、女であることの味わいも』で、長女を死産したことや、学校で孤立していたことなどを綴った。初めての自伝だ。

そのうちの1章、「初めての経験」で、14歳のときに受けた集団性的暴行の被害について書いている。

「死ぬのだろうな」

14歳、中学3年生のとき、小説を読みながら帰宅していた三浦さんは、後ろから寄ってきたバンに乗っていた男たちに声をかけられた。

あとはあまり覚えていない。覚えているのは痛みと、死ぬのだろうな、という非常にリアルな感覚だけだ。私の頸に手をかけたそのうちの一人ののっぺりとした眼つきが醜くて気持ち悪く、せめてもっと楽な死に方をさせてもらいたかった。少なくとも一人は知っている顔だったと思う。

殺風景な新幹線の高架下で、ほらよ、と放り出されて、私はバッグとスカーフを胸に抱えて家までよろよろと歩いた。自分がどんなにぼろぼろでも、いつも通りの田舎の風景は微塵も私の心に寄り添ってはくれなかった。

きちんと閉まった正面の門を避けて庭の戸口から入り、母が茅ヶ崎の庭から持ってきて植えたあんずの木の下で、隠れるように外水栓の水で顔と手を洗った。制服を脱ぎ捨てたのち、手負いの狼のように私は炬燵の中で唸った。下腹部の痛みが尋常ではなかった。手でさわると血がついた。

(「初めての経験」より抜粋)


そのときは母親には言わなかった。警察に通報しなかった。産婦人科にも行かなかった。

その後、付き合った男性には言ったり言わなかったりしたけれど、この体験をもって、自ら性暴力被害の当事者だと表明したこともなかった。

性犯罪をめぐって意見表明したツイートが炎上し、謝罪したときでさえも。

なぜ今回、自らの体験を書いたのか。


性的被害について書いた本ではない

私のもとには、ミソジニー(女性嫌悪)からくるバッシングが日々、数えきれないほど届きます。そういう「目立って叩かれやすい三浦瑠麗が、どうやって嫌がらせや生きづらさを克服してきたのかを書いてほしい」というのが編集者からのオーダーでした。

誰にでも通用する解決策やハウツーなんて存在しないから、そのオーダーに正面から深く応えるには、自伝という形を取るしかありませんでした。半年ほどその依頼を放置していた後、そのことに気がつきました。

10日間、昼間は机に向かい、寝て起き出してはまた書いてを繰り返し、頭の中にあった幼少期の記憶を思い出して、一つずつのシーンとして書きとめていきました。

孤独だったときの記憶。女であることの意味に気づいたり、気づかなかったりしたときの記憶。"そのとき"の自分の思いをしっかり捕まえながら、書いていく作業でした。

だからこの本は、性的被害をテーマにした本ではないんです。書く作業の中で出てきた体験の一つに過ぎません。ただ、自分の人生の中で、どのような体験として位置付けてきたのかを、どうやったら読者の方々に伝えられるかについては、よく考えました。

多くの人がそういうことを実は経験しているのではないか。表に出るのは氷山の一角だったり、特定の傾向のある事件だったりするだけで。

自分の体が侵害されたり、精神的に無視されたりしたことを、その後の人生でどのように扱っていくのか、ひとりで苦しんでいる人がいるのではないか。

そのことで深く悩み、自分を見つめ続けてきた人間が、四半世紀たってどのように振り返るにいたったか。それを伝えることに、意味があるのではないかと考えました。

当時の私は何をわかってなかったのか。周りの人間はどう反応したのか。どういう悩みかたをしたか。

その一方で、その体験によっていまの私という存在が定義されていないのはなぜなのか。

そうした被害によって私の人生の行く末が決まってしまうという人びとの見方にどう抗ってきたか。

そんなことを書いたつもりです。

被害を乗り越えようとするときに

私は、事件の後、恐怖を感じていました。田舎の一本道をひとりで学校に行かざるを得ませんでした。授業中に気分が悪くなると保健室に行きました。

男性を遠ざけたくなったこともありました。自分が女性であるということを憎んだこともあります。

けれども、そうした事件に巻き込まれる前から、女であることの生きづらさや孤独は、私自身を少しずつ蝕んでいました。

女であることの生きづらさから逃れようとして、自ら殻を作って相手を信用しないとか、擬態を身にまとって相手に好かれようとするとか、若かったうちはいろいろな方法で自分を守ろうとしたものです。

そうした行動は生存本能からくるものですが、同時に社会との関わりで私が他人の反応から影響を受けてしまったからでもあるのでしょう。

私は、自我を育む重要な思春期にこのような事件に巻き込まれました。被害を受けた自分が、単なる生存本能に頼るだけでない、自我を確立するうえで、社会の空気や周囲の反応は、まるで手助けになりませんでした。

性的被害に対する社会的な見方は、被害を乗り越えようとする過程で大きく影響してしまうのだということを実感しました。

「被害者」としての見られ方

当時はいまよりもさらに、被害者のほうに原因を求める考え方が根強かったと思います。無防備だったんじゃないか、着ていた服が悪かったんじゃないか、と被害者を責める考え方が典型です。

でも、それだけじゃないんです。

被害者を被害者としてだけの存在に追い込む考え方も、私の自我を傷つけるものでした。毎日、一生、息をしている間ずっと被害者でなければならないのか、と。被害者自身が自分は「汚れた」と感じてしまう場面も多いです。

そういう、社会的な眼差しがあるわけです。

私はそれを、母親の無言の挙措や、その後に付き合った男性たちの反応から感じました。

母親にしても男性たちにしても、私と同じ経験をしていないからわからないだろうという諦めもある一方で、いくばくかの理解を求める気持ちもあるわけです。それなのに、相手から想定外の回答が返ってきたり、あるいはもはや自分がそんな無理解に慣れっこになっている中でも同じ反応ばかりが続いていけば、絶望を深めるじゃないですか。

こういうとき、社会を責めるのは簡単です。でも人間というのはお互いに無理解な存在です。性暴力被害者に限らず、孤立を感じる人間はたくさんいます。

私は、すべてを自分で消化することでしか救われなかったんです。

絶望を重ねたときに、それでも自分を愛せるのか。無理解な他人を愛せるのか。あるいは自分だけの被害体験に閉じこもらずに、より普遍的な善意を持ちうるのか。つまり、それでもなお人を信じられるのか。自分の存在に意味はあるのか。そういうことをずっと考えてきたんです。

性的被害というスティグマ

なぜ母に正直に言わなかったのだろうか。

ああ、台無しになってしまって!と言われるのではないかと怖かった。私は台無しになったんだろうか......。私はぼんやりと思った。

(「初めての経験」より抜粋)

ある男性の友人は、私が体験を書いたことを知って「出版するべきじゃない」と言いました。

被害者の烙印を捺され、今後それをずっと背負って仕事をして行くのは不利になるのではないか、娘がかわいそうじゃないか、と。心配をしてくれたことには愛情を感じました。実際、自分の大切な人が世間からそういう目で見られるのは耐えられないという思いもあったのかもしれません。

別の人からは「瑠麗さんにこういうことがあったなんて信じられない」とも言われたんですが、それは経験していたとしても言わない人があまりにも多いからではないでしょうか。

「いわゆる被害者像」から外れた事例を、マスコミが意図的にか無意識的にか切り落としている可能性もありますよね。

ひどい性的被害を受けた女性が、その後いかに悲惨な人生を送ったかという記事や発信はたくさんあります。

性的暴行が被害者に、ものすごいスティグマ(傷跡)を残すということばかりが伝わり、それを興味本位で読む人もいます。

実際に、心身に深い傷を負い、回復できず苦しんでいる方は大勢いるはずです。しかし、被害者の苦しみかたは決して一様ではないし、乗り越えかたもさまざまです。

一度、傷を負ったら人生は終わりだ、ということもない。仮にそうなのだとしたら、今この瞬間、性的暴行の被害に遭った少女は何を思うのでしょう。

私の人生は台無しになったんだ、これから数十年間の人生はあるけれど、もう生きている意味はないんだ。そう思わせてしまう可能性はありませんか?

#MeTooのムーブメントによって、性的被害がすべて闇に葬られない時代になったのはいいことだけれども、それが語れる時代になったからこそ、気をつけなければいけないことがたくさんあると思っています。

「それはあなたが強いから」に対して

「レイプは魂の殺人なんだ。だから一生、苦しむものだ」と洗脳するような、脅迫的な接し方では、被害者を救うことはできません。

魂の殺人だと思っていいし、私もそう思い込んで消えてしまいたかった時期もあります。でも、それは社会の通念や価値観をそのまま受け入れていたからでもあるし、そのときに理解してくれる人が現れなかったからでもあるんです。

その後の人生を通して、処女性なんていうものには、何の価値もなかったのだとわかりましたから。そもそも「汚れる」って一体なんなんだろうと。

私は、理解ある夫を得たという点では恵まれていたかもしれません。そして「強くなる」ことができた。でも、それは私が自分の受けとめた物事から目をそらさない生き方を選んだからであって、はじめから強かったわけではありません。

私が経てきた道程は、けっして私ひとりのものではなく、多くの女性の道程と重なる部分もあるはずだと思っています。

陰惨な事件のそれから

振り返ってみれば、14歳以降、進学をし、仕事をし、伴侶と巡りあい、長女を弔う経験をし、次女を産み、仕事をしながら育てています。新しい刺激をどんどん取り入れて、そのたびに感動を積み重ねてきました。被害者としてのみ生きてきたわけではありません。

たしかに暴行事件は陰惨なものでした。私の場合は特に。でも、比較にならないくらい、その後の人生のほうが豊かであり、かつ痛みも伴ったし、ずっと手応えがあったよ、ということなんですよね。

そういう中で得てきた経験を、本を書くことで差し出すということは、別に、強さの表明ではないと思っています。

つらさの継承ではなく

性的被害を受けた人たちが苦しむ重要な理由の一つに、被害者に責任を求める議論、いわゆる「落ち度論」があります。

あの時間にあの場所であんな格好で歩いていたのは「落ち度」なのか、就職活動の一環で誰もが行くような会食に行ったのは「落ち度」なのか、キスまではしたけれど途中で嫌になって「やめて」と言ったのは「落ち度」なのか。

服装と被害の相関は、複数の調査ですでに否定されています。それに、ちゃんと「NO」と言っている。被害者に部分的にせよ責任があった、という言い分は簡単に崩れるのです。

一方で、加害者がどういう心理で犯行に及ぶかというと、生意気な女がいたら顔に泥を塗りつけてやろうとか、組み敷いてやろうといった憎悪やルサンチマンはあるのかもしれない。

女であることによって、自分ではまだそれを意識していない少女が性的な目で見られたり、女なのに生意気だと抑圧や不当な扱いを受けたりすることはあるでしょう。

女であることと性的暴行のあいだに因果関係があるかと言えば、それはあるだろうと思います。けれども、それは責任とはまったく無縁のものなのです。性的暴行の責任を被害者の存在や振る舞いに求めるのは、いくばくかであったとしても、間違っています。

夫に出会ったとき、伴侶として語り合ううちに彼が私に言ってくれたことがある。帰責性と因果関係を混同したらだめだ。あなたという存在には、他者の支配欲を呼び起こす原因はあるが、だからといって責任はない。ああ、あのときにそう分析して私に語ってくれる存在がいたらよかったな、と切に思うのである。

(「初めての経験」より抜粋)

少なくとも、救えない子なんていないのだ、と私は思いたいし、大なり小なり誰だって傷を抱えて生きているのだ、とも思う。あなた自身を、出来事や外部に定義させてはいけない。あなたのことはあなた自身が定義すべきなのだから。

(「孤独を知ること」より抜粋)

女性は社会的に、いろいろな役割を期待され、対象として見られ、定義されやすい存在です。自我が確立する前に「女」として見られてしまい、それによる偏見や不愉快を多く受け取ってしまいます。

ただ、そうした偏見や不愉快を脱していくやり方は、必ずあるのだと私は思っています。

この本に書いているのは私のやり方でしかありませんが、自立を求めること、自分を愛せるようになること、他人を愛することによって、そういうつらさはかなり緩和していったからです。

つらさの連鎖や、世代を越えた継承ではなくて、つらさの克服や愛の継承が必要なのではないでしょうか。最終的に幸せになっていくんだよ、という人生観をあのとき私に与えてくれる人がいたとしたら、もう少し、生きやすくなったんじゃないかな。

それが、あのときの私や娘や、いま十代を過ごしている女の子や、これから生まれてくる子たちに、時を超えて届けたかったことです。